読書メモ 2021.6.27

百木漠「スマホとデジタル全体主義」(『世界』2021年7月号)を読む。

「二一世紀には、資本主義と全体主義だけでなく、データ主義が人間文明にとってのあらたな脅威となる可能性がある」

という指摘が面白い。20世紀は資本主義と全体主義が、人間の活動を大きく展開させた。データ主義とはつまり人間がスマホに自らのデータを手渡して、それを受け取り続けるプラットフォームの無限の拡大、強化されるアルゴリズムにより人間に影響を与えていくという無限の運動で、それは資本主義と全体主義とは別というより、二つの要素がより徹底され、パワーアップしたバージョンとして捉えることもできそうだ。

ここで忘れてはならないのは、資本主義と全体主義の運動に対して、共産主義的な運動もまた、人間を駆動させていたという20世紀の歴史だ。本論でも「デジタル技術は資本主義的にも共産主義的にもなりうるはずだ」と指摘されているが、インターネット上において情報はただ搾取されているのみではなく、溢れ出すことで情報を共有するツールとしても使える可能性は残されている。というかインターネット初期に目指されていた可能性とはそういうものだったはずだ。

とはいえ現在のネットを見る限り、そもそも情報を共有したり、それを活用するという行為自体が無効化しているような側面もある。エコーチェンバーと言われる通り小さなコミュニティのなかで同じような情報がぐるぐる回っているだけなんだけどそこのなかでの満足度は高かったりするような状況が各所で見られるし、なかなか厳しい状況だなとも思う。

 

本論とはすこし離れるけれども最近考えているのは、特にスマホ以降に人間の思考の方法、というか思考を他者に向けて表現するような方法論自体が大きく変化している可能性だ。むろん、あまり良い方向に変化しているとは思っていない。そして、当然ここでこんな文章を書いておそらくこれから告知をする自分も変化の渦中にいる。となると「自分について書く」こともまた、現代の世界を描くことに直結するのではないかという気がしてくる。「自分の話をする」のがいいかも。