映像の20世紀、映像の21世紀
深夜にテレビをつけたら「映像の世紀」が再放送されていたので、急にどうしたNHK、と思いながら見入ってしまった。加古隆による、ででででーん、というテーマソングも好きだ。サブスクにもあるので、出勤時にかけながら歩くと壮大な気分になれる。
この番組は90年代に製作されたものだが、それからわりと月日が経って、21世紀前半になったいま自分は再放送を見ているということになる。この時間を、「映像の世紀」でも取り上げられる19世紀末〜20世紀に重ね合わせるならば、ボーア戦争をやってたころに製作されたものを、日露戦争もバルカン戦争も第一次世界大戦もロシア革命もスペイン・インフルエンザも通過したあとの1921年に体験している、みたいなことになる。なんて比べてみると、あの頃のような世界戦争こそ起こっていないし、自分の身体こそ何十年間も無事なものの、それに匹敵するような激動を経験しているのかもという気がしてきた。少なくとも、いま電車のシートに座ってちっこい板みたいな物体に向かって懸命に文字を打っているという風景は、1990年代には存在していなかった。
21世紀前半に生きる自分の視点で改めて見ると、それまであまり意識していなかった部分に気づかされた。1900〜1910年代くらい、映像メディアが登場したばかりの頃の出来事が、妙にいまに近いような気がしてくるのだ。19世紀末に出現した「映像」は「映画」となり、やがて映画監督が生まれ、作家性を帯びることになる。つまり記名性が生まれる。しかし、誕生当初はなんか珍しくて面白い最先端のメディアで、いまでは誰も知らない、記名されていない人々がとにかくいろいろ撮りまくっていたのだった。観客もどんどん過激な表現を求めるようになるので、とくに作家性もないけどみんなを楽しませるために作られた奇妙な映像がたくさん生まれた。
デカいマントに身を包んだ男が、エッフェル塔から飛んでみると豪語し、周りも盛り上がってしまって引くに引けなくなってしまい、えいっとばかり飛ぶのだが、無論飛べるはずもなく墜落、即死してしまうという辛い映像が記録されていた。しかし全然過去の出来事のように思えないのは、このように人目を引きたい人間がいまもいるのが、日々インターネットを見ていると如実に分かるからだ。また、1905年ロシアの血の日曜日事件の模様がやたらと鮮明に記録されていて、こんな映像あったのか!と思ったら、のちに誰かによる仕込みで作られた映像で、おそらくソ連時代に入ってからのプロパガンダであると言われている、とナレーションが入っていて驚いた。フェイク映像だ。記名性がなく、正体不明の映像が溢れているという状況は、むしろこの番組が作られた1990年代より、現代のほうに親和性がある。