「ことばへの犯罪」とは

つい先日、芹沢俊介・編著『少年犯罪論』(青弓社)という本を読んでいた。1992年に刊行された、複数の論者による、当時の少年犯罪から日常での振る舞いに至る「子ども」たちの様相についての論考が集まっている。そのなかにある向井吉人という方の「ことばへの犯罪」という文章を興味深く読んだ。小学校の教員という立場から、最近(つまり、1990年代前半)の子どもたちの変化について述べている。当時の小学生とは、すなわち自分(1984年生まれ)である。つまり、教員から「自分たち」はこう見えていたのかという発見を呼び起こすような論考だった。

 

「ことばへの犯罪」というのは奇妙なタイトルだが、その前に、当時の子どもたちが教室内でのやりとりで、それまでと異なった言葉の使い方をしているとして、何点かの要素を挙げているのだが、以下の点が気になった。引用すると、

 

「きわめて教育的な姿勢をうかがわせる言動で、教員や友だちに接することがある。特に、ささいな失敗や、教員らしさを逸脱した言動に対して厳しい」

 

というものだ。これはなんとなく自分にも覚えがある。イヤな子どもだったのがバレてしまうのであまり書きたくないのだけど、黒板に誤字が書かれたのを見ると、得意げに指摘するような小学生パンスだったのを思い出す(そんなもんだからいじめられたりもしたが、いまは仕事で誤字を見つけたり、自分で誤字をやってしまったりするので人生というのは不思議だと思う)。これは自分自身の例だけど、本文中にあるのは、教えていると「こんなことなんの役に立つの」とか、早めに授業を切り上げると「ちゃんと時間を守ってください」と言われたりしたという。たしかに、このような言葉も飛び交っていたような気がする。

 

さて、そんななかにおける「ことばへの犯罪」とは何か。ここがわりと複雑で掴みづらいのだけど、要約するならば、学校や教室というシステムに対して介入する言葉ということになる。さきほどの「失敗に厳しく」介入するのも然り。また、「ことば遊び」的な表現、つまり話芸的なコミュニケーションも「犯罪」たりえるとしている。当時放映されていた人気番組「平成教育委員会」が例に挙げられているが、出演者のキャラクターに合わせた「誤答」がおもしろさを生み出すような状態を、子どもたちも楽しんでいると言う。これもまた当時の記憶に照らし合わせて納得できる。

 

ここで思うのは、その後インターネットが出現して2000年代には全面化したコミュニケーションのあり方だ。自分もその頃ははてなで拙いブログを書いたりしていた(いまも書いてる)。ということは、当時の子どもたちが成長してインターネットでのコミュニケーションを作り出していたんだよなと強く実感するのだった。もちろん草創期より自分たちより上の世代の方がたくさんいらっしゃったけれど、90年代の小学生による教室空間に「逸脱した行動に対して厳しい言葉」と「ことば遊び」が両立した、両義的な状態があったとすれば、それはたしかに現在のインターネットにも移行しているよなと考えたりしたのだった。