2022.3.19

日本共産党の議員の人がTwitterにて、ロシアで反戦を唱えたアナウンサーを讃えて「真の愛国者」だ、と書いていて、一瞬「うわっ」となってしまったのだが、よくよく考えれば、戦後(1960年代以降)の日共は民族自決、自主独立路線だった(わざわざ共産党オフィシャル・サイトまで行って綱領も確認してしまった)。現行インターネットリベラルにとっては人民戦線のようなインターナショナル路線を想起させられるのかもしれないが、それは戦前の話であって……、

 

とか、そんなマニアックな話をするのに何の意味があるのか、今は非常時であるのに、などといった言葉こそにノーを突きつけたい。それが自分にとっての「反戦」だ。毎日毎日一応インターネットからテレビまでチェックしているのだが、「反戦」を抑圧する言葉の気配は今や各メディアはもとより市井のインターネットリベラル、各種Twitter政治学者にも感じる。「平和の論理と戦争の論理」(久野収、1972年)からやり直さなければならないのだろうか? 

 

事態はかなり際どいところに来ていると思う。その「際どさ」は世界中で展開しており、ロジックやイメージによって促されるようなものでもなく、もっと身体的だ。要するに、指先でクリックした先にある。例を挙げるならば、いま『ウクライナ・オン・ファイヤー』とGoogleの検索窓に入力したら『ウィンター・オン・ファイヤー』の情報ばかり出てきた。えーと、紛らわしいのだが、前者はオリバー・ストーンが監督で、ロシアのプロパガンダなんじゃないかとも言われており、後者はNetflixでいま見ることができる、ウクライナの2014年マイダン革命のドキュメンタリーだ。前者の日本語字幕付きは現状ニコニコ動画でしか見ることができず、昨日は駐日ロシア大使館Twitterアカウントがニコニコのリンクを付けて宣伝するという珍現象まであった。

 

今日僕は部屋のレコードを片付けて、断捨離期間中ということで昔買ったミニマルハウスのレコードを40枚ほど下北沢で売却し、帰宅して要らない書類などを処分して、ヘトヘトになったので整理していたら出てきたマリン・ガールズのLPをかけながらグッタリと横になっていたけど起きて、Netflixの『ウィンター・オン・ファイヤー』を観た。そこで映し出されていたのはまさに「革命」以外の何ものでもなく、パリ・コミューンが存在した時代にビデオカメラがあったら記録されていたような映像がひたすら時系列で流れているのだった。機動隊による猛烈な弾圧に対抗し、バリケードを作り、タイヤを燃やして煙幕をはり、火炎瓶を投げる。実弾まで投入されるなか木製の板まで導入して盾にしながら広場から撤退しない市民。ドキュメンタリーはヤヌコーヴィッチ大統領が亡命し失脚するところで終わっているが、この後にロシアはクリミア半島に侵攻し、東部ウクライナでは内戦が起こる。日本からの風景としてはソチ・オリンピックで盛り上がったりしていた、その頃ソチからほど近い場所で起きていた話だ。

 

ひとりの女性が、バリケードの中に置かれたピアノでショパン「革命のエチュード」を弾いていた。かつて国土を蹂躙されたポーランドの作家の楽曲は、その後19〜20世紀を通して大国に翻弄され続けた東欧で、21世紀においても象徴的に鳴り響くのかと胸を突かれた。

 

そんな思いで観ていたのだが、僕にとっていちばん大きな感想は、自分にはこんな英雄的なことはできない、平和を希求することしかできない、という、極めて皮相でちっぽけなものだった。それが正直なところだし、限界だと思う。じゃあどうすればいいのか、いざというときはどうするのか、と問われれば、答えることができない。むしろこのあいまいで皮相な感情を、どのように理性的に、行動的に落とし込んでいくか、それだけが問われているのだと考えている。自分の思考を仕切り直さなければいけない。そのために書き続ける。まだ書くことはたくさんある。