【書評】アニメを見て、戦争を自問する ―藤津亮太『アニメと戦争』―

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 前回山之内靖、ヴィクター・コシュマン、成田龍一・編『総力戦と現代化』を通して、戦中と戦後体制は連続しているという歴史的アプローチについて書いたが、念のため付け加えておきたいのは、これはあくまでもシステム論的な見方であって、実際にそこに生きるひとびとの間では、戦中/戦後というのはひとつの断絶として認識されているという事実だ。かつ、断絶の解釈そのものについても、グラデーションがあるゆえに、ひとことでまとめるのは難しい。深く思考するためには、時代を生きたひとびとの表現に迫るのがよいだろう。そこで最近刊行された藤津亮太『アニメと戦争』(日本評論社)はとても参考になった。帯文では富野由悠季が「そろそろ自問しよう。アニメから……!」と熱いメッセージを記している。

 

 インターネットで本書の存在を知ったとき、装画に藤田嗣治戦争画アッツ島玉砕」が使われていると僕は認識し、このテーマでこの絵画を使うのは興味深いと思いポチったのだが、届いた本の書影を見返したら、「アッツ島玉砕」ではなく、それをパロディックに再現した会田誠による「ザク(戦争画RETURNS 番外編)」という作品で、より面白いと思った。このセレクトに、本書の性格がよく現れている。

 

 全体を通して、『総力戦と現代化』の編者でもある成田龍一が提示した、日中戦争アジア・太平洋戦争の「語られ方」についての時代区分を参照している。かつてあった戦争が、「どのように語られてきたのか」という点に着目して、歴史を描き直すという試みだ。それはどのようなものか。まとめると、

①1931〜1945→「状況」の時代:現実に戦争が起こっていた時代

②1945〜1965→「体験」の時代:戦争体験を持った世代が語り合う時代、

③1965〜1990→「証言」の時代:体験者が体験していない相手に「語りかける」時代

④1990〜現在→「記憶」の時代:体験していない世代が大多数のなかで、さまざまな戦争についての語りが統合されている時代

という、4区分だ。本書はまず、この時代を通して作られた「ゲゲゲの鬼太郎」シリーズにこの区分を導入することで、アニメと戦争記憶の関係性を探っている。

 

 一目見て、戦後すぐは残っていた戦争の記憶が徐々に風化して、いまでは誰もリアルなイメージを持てなくなっているという構図が浮かぶかもしれない。その通りなのだけど、そのような解釈に収まりきらない葛藤が、アニメ製作者側にはつねにあったことも分かってくる。日本のアニメの発展は、東西冷戦期とちょうど重なっている。しかし、冷戦を直接的に描いた作品は意外と少ない。80年代、核戦争のモチーフに見られるくらいである。むしろ、先の大日本帝国による戦争をどう解釈するかといった問題のほうが、彼らにとって喫緊の課題だったのかもしれない。反戦でいくか、戦争の美学を強調することで「リアルさ」を追求するか。「宇宙戦艦ヤマト」における西崎義展と松本零士の対立などにも現れている。

 

 とりわけ興味深いのは、そんな冷戦が終わったあとの動きだ。「紅の豚」はファシズム下での厭戦気分を描くことで戦争に抗おうとしたが、監督の宮崎駿は製作中、舞台であるアドリア海に面したユーゴスラビアで新たな民族紛争が発生したことを意識せざるを得なかったと述懐している。また、「機動警察パトレイバー2 the movie」はPKOなど当時の日本が抱えていた課題を導入したり、湾岸戦争以降の、メディアを介した戦争の虚構性を提示している。先の区分で言うところの「記憶」の時代にも、アニメの製作者側によるさまざまな奮闘があったことが見えてくる。

 

 その後はどうだろうか。21世紀に入ると、「ガールズ&パンツァー」など、自衛隊が協力するような現象も見られるようになる。このまま官民一体化が進むのかもしれないし、そうでもないかもしれない。しかしいずれにしろ放置されているテーマとして、日本の戦争責任という問題がある。例えば中国大陸を舞台にした日本の作品は、いまもってほとんどないのだ。そこにアニメやサブカルチャーがどう応答するか。むしろ、それを成し遂げられるのは、日本の近隣諸国のクリエイターなのかもしれない。そんなことも示唆されている。ひとつ、初めて知って驚いたのは、高畑勲が『火垂るの墓』の次に、1939年のソウルから満州を舞台とした冒険活劇を考えていたというエピソードだ。天安門事件などの影響で流れてしまったとのことだが、もしそれが公開されていたら、その後、90年代の子どもたち、つまりいまこの文章を書いている自分の世代などが持った戦争の「記憶」は、どんなものになっただろうか、と考えてしまう。

 

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