SNS言説の背景を考えるために

日本において「終戦」と認識されている日に、ターリバーンがカブールを陥落させたというニュースが入ってくるのは、なんとも妙な気分である。いやもちろんそれぞれは別々の事象であることを強調したうえではあるのだが。太平洋戦争の「終戦」が、レコード盤に記録された「終戦詔勅」が放送された8.15に規定するか否かという議論はずっと続いており、降伏文書が調印された9.2ではないかとか、さまざまな説があるのも理解はしているつもりだ。米艦隊が相模湾に入泊したのは8.27で、連合国軍の先遣隊が厚木に到着したのは8.28だ。

 

故・中村哲医師がターリバーンについてある程度肯定的に語ったインタビューをwebで読むことができる。その紹介ツイートに対して、いやターリバーンは悪だという反論リプライが大勢来ているのを見るにつけ、その是非はともかく、ひとつの感慨がある。というのも、自分が高校〜大学生だった頃はちょうど同時多発テロからアフガニスタン空爆イラク戦争の時期にあたり、当時の「対テロ戦争」というイデオロギーに対する議論はあちこちで巻き起こっていたと記憶しているが、少なくとも2021年のSNSでそれらはあまり受け継がれておらず、多くの人々は21世紀初頭にアメリカが打ち出した「対テロ戦争」レジームの延長上で考えているように見える。

 

日本人の持つ「ターリバーン観」しかり、日々議論の応酬が続くSNSの背景には、ここ数十年単位でのイデオロギー的な規定があり、そのパースペクティヴを認識する必要性について考えている。以前「ことばへの犯罪」という文章を書いたときにも意識していたのだが、DaiGoにまつわる議論もまた、この大きなイデオロギーの範囲内で思考せざるを得ない状況のなかにあるのではないか。すでにいくつかの指摘がなされているが、「権利は義務と引き換えにある」的、合理性重視な思考が人々のなかに深く内在していて、DaiGoの発言はもとより、彼に対する反論のなかにも散見されるのがどうにも気になる。

 

矢野利裕氏による所感は、そういった状況自体を教育現場から「実践的」に捉えていて読み応えのある記事で、とてもおすすめである(ちなみに『ことばへの犯罪』で取り上げたのも、1992年時点の教育現場からの論考だった)。このように整理する作業がいまは重要だと考えている。

 

それはなぜか。ここ数年におけるSNS言説の数々は、整理とは無縁で、モノローグ的に繰り出され、アテンションを生み出す機能に特化したものばかりになっているからだ。念のためここで注意深く補足しておくと、モノローグそのものの問題というより、それが政治的に機能したときに、背景にあるイデオロギー的な規定がぼかされがちで、曖昧なまま展開・拡散していく議論自体への疑問がある、と言いたいのだ。僕が昔の話をやたらとしつこくするのは、その仕組みから抜け出して考えたいという意思があるからなのだが、まあまどろっこしく見えるだろう。しかし、まどろっこしくしなければならないとも思っているのだ。