【書評】時代の帰結であると同時に、次の兆候である ー磯部涼『令和元年のテロリズム』ー

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 現代とはいかなる時代か。インターネットを見ていると、毎日のようにホットトピックが流れてきて、それらに対するほぼ直感的な論評で溢れる風景が日常となって久しい。つい先日ーー世界的パンデミックが到来する令和2年の前年ーー令和元年に発生した複数の事件を分析した本書を、僕は上記の「日常」に対する抵抗の書として読んだ。

 

 現代をどう思考するか。それを正確に行うためには、過去をどう捉えるかと併せて、現在生起している出来事のなかに飛び込んでいかなければならない。その実践が記録されている。

 

 ここで「元号で考える」行為についても記しておきたい。日本は西暦以外に元号を導入している国だ。江戸時代までだったら何か災い(またはCovid-19禍の『禍』だ。)があったときなどに変更されており、その意味で、元号とはスクラップ&ビルド的なテーマ性を抱えている。歴史をあとからひとつのまとまりとして対象化し、あのときはこうだった、というイメージに昇華する作業はいまも行われている。最近だと「昭和グルーヴ」「平成レトロ」といったワードも見かけた。しかし、実際の歴史とは、膨大な人々とモノの動きが交錯し、前の時間からの連続性によって成り立っているのであり、ひとつに収斂させることはできない。僕が年表に拘っているのも、そのゴチャゴチャ自体を、シューゲイザーよろしく浴びるような体験に「歴史」を感じ取っているからだ。

 

 とはいえ、僕は「ひとまとまりの歴史」を一概に否定したいわけでもないのだ。元号としてくくられた時空間を生きた人々が、そこになにかの精神性を見出すというのは往々にしてあることだ。これは、元号に限らず西暦におけるディケイドでも起こる。さらに、元号の持つスケールが、実際の歴史の変化に妙に符合したりもする。

 

 吉見俊哉・編『平成史講義』(ちくま新書)の冒頭では、平成元年に起こった事件が、その後平成の30年間をあたかも規定したかのような、兆候的な現象として起こったという指摘がされている。当時世を騒がせていたリクルート事件は、ロッキードのような疑獄事件の延長と捉えられると同時に、実体経済からの遊離において、その後のライブドア村上ファンド事件のような性質を持っていた。宮崎勤事件が抱えていた虚構性もまた同様だ。その見立てになぞらえるならば、令和元年に起こった事件も、のちに振り返った時に「令和時代」を規定するようになるのかもしれない。

 

 同時に、ある兆候的な出来事を、それまで歴史が抱え込んできたものたちのある一点における帰結と見ることもできる。『令和元年のテロリズム』では、川崎20人殺傷事件、元農林水産省事務次官長男殺害事件、京都アニメーション放火殺傷事件をもとに、犯人とそれを取り巻く環境から、平成〜令和という期間にかけて、たしかに存在したものの、顧みられることのなかった凄惨な問題をいくつも浮かび上がらせている。それらは複数が交錯し、絡み合っているので、「これだ!」とばかりにまとめ上げるのは至難の技だ。重要な点をなんとかピックアップするならば、それは高度経済成長期以降の「家族」が持った閉鎖性と、中流意識のなかで隠蔽されていた経済的格差ということになるだろう。

 

 タイトルにある通り、これらの出来事はひとつのテロルとして表象される。一見、政治的テロとはかけ離れた行為かもしれないが、的確な指摘であると僕は思う。テロリズムが完全な個人意識の発露となったのは(名目上宗教的・政治的背景などを掲げつつも)欧米を席巻している個人テロにも見られる傾向だ。吉田徹『アフター・リベラル』(講談社現代新書)はそれらを「ウーバー化するテロリズムと呼んだ。日本での現象も、このような地平で語られる必要があると思われる。70年代よりアウトノミア運動を推進したフランコ・ベラルディ『大量殺人の“ダークヒーロー”』(作品社)にも、現状分析に関して銃乱射の犯人たちにフォーカスすることによる、同じような意識が見られる。

 

 そして、本書が提示する問題はそれらがもたらす恐怖の記述にとどまらない。上記の事件を日々受け止めていた、市民社会の意識の変化のありようが底に流れ続けている。後半、東池袋自動車暴走事故を受けて沸騰した世論が、それを端的に示す。私たちは何に苛立つのか。その背景にある精神性はなんなのか。ある極端な現象を目の当たりにしたとき、もしくはある異質な存在を目にしたとき、それを排除しようとする感覚は、拡大し続けているのではないか。つまり、本書の切っ先は私たちにも向けられている。

 

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