年表で見る! かつての東京オリンピック

1938年7月、日中戦争の影響により、1940年東京オリンピックが中止になった。

それから83年後の夏、コロナウィルスが拡大するなか2020年東京オリンピックが開催され、この記事がアップされるころに閉幕しようとしている。

さまざまな議論を読んだ今回のオリンピックだったが、本記事ではそれらにはほぼ触れず、1940年と1964年、2回存在したオリンピックについて、当時の年表を参照しつつ紹介したい。

 

1940年は皇紀二千六百年だった

NHKドラマ「いだてん」でも取り上げられた1940年東京オリンピック。ドラマでは、進行する戦争の気配と、それに翻弄される関係者の様子が生き生きと描き出されている。物語を楽しみつつ、改めて当時の歴史を調べてみると、1940年は「皇紀二千六百年」つまり神武天皇即位2600年を祝うモードにあったことが分かる。東京オリンピックもその祝賀行事の一貫で、さらに、同年には札幌オリンピック万国博覧会も予定されていて盛り沢山だったのだが、それらはすべて、日中戦争の影響で中止となった。しかし、皇紀二千六百年の祝賀行事は、1940年11月に開催されている。その直前の出来事を見てみる。

 

1940年8月:東京市内に「ぜいたくは敵だ」の立て看板設置

1940年9月23日:日本軍、北部仏領インドシナに武力進駐開始

1940年9月27日:日独伊三国同盟締結

1940年10月12日:大政翼賛会結成(総裁=近衛文麿

1940年10月31日:東京のダンスホールが閉鎖:最終日は満員に

1940年11月10日:紀元二千六百年祝典

 

5日間にわたる祭典で、娯楽が制限されるなか、この日ばかりは昼酒も許されたという。終了後は「祝ひ終った、さあ働かう」と戦時体制に戻った。

この祭典の目的は、国民の間に建国神話を再確認させることにあった。それは押しつけというよりは、百貨店での催事や観光産業によって、「娯楽」として提供された、消費文化のひとつの形でもあった。いまも東京都中央区にある勝鬨橋は同年6月14日に完成、開催されなかった「万国博覧会」予定地の月島にアクセスするためという目論見もあった。

 

1936年ベルリン・オリンピックの影響

1940年東京オリンピックの前には、1936年ベルリン・オリンピックが開催されている。前畑秀子の活躍と「前畑ガンバレ」というアナウンサーの掛け声、ナチスによるテクノロジーを駆使したメディア・イベントに圧倒される様子は「いだてん」にも描かれていた。日本も自国の技術力を世界に誇示しようと試み、この頃テレビジョンの開発が開始されていた。新聞も「少くとも東京市内、うまく行けば全国の各家庭へ」などと報じていたという。その期待が実現したのは戦後、「テレビの時代」が始まって以降になる。ちなみに、いまではオリンピックの定番になっている聖火リレーが始まったのも、ベルリン・オリンピックからだ。日本もこれに倣い行う計画を立てたが、これも1936年10月に発表された当初は「紀元二千六百年」を強く意識したものだった。上海から門司に入り、九州の高千穂峰で「二千六百年」を奉賀、伊勢神宮明治神宮から会場へというコースだった。

 

1964年オリンピックに対する文化人の反応

さて、戦前に実施できなかったオリンピックは、戦後、1964年10月10日に実現することになる。そのいきさつについては「いだてん」に譲るとして、開催直前の日本の出来事を、これまた年表形式で見ていきたい。すでに知られる通り、高度経済成長のさなか、いまの日常に至る萌芽を随所に見ることができる。

 

1964年8月4日 トンキン湾事件:米軍機、北ベトナムを爆撃

1964年8月6日 東京で水不足、給水制限実施

1964年9月6日 王貞治、年間53本塁打日本記録樹立 →09/23 55本達成

1964年9月9日 池田首相、国立がんセンター付属病院に入院

1964年9月12日 東京・築地署、銀座の「みゆき族」を補導

1964年9月17日 東京モノレール開業:浜松町ー羽田空港

1964年10月1日 東海道新幹線開業:東京ー新大阪間が4時間に

1964年10月3日 日本武道館が開館

 

トンキン湾事件ベトナム戦争の火蓋が切られるなか、東京の夏は水不足で、「東京砂漠」と呼ばれていた。アイビー・ルックに身を包んだ「みゆき族」は、戦後日本のストリート/族・カルチャーに位置する。しかし、浄化作戦のなかで一掃された。オリンピックの名の下に、建築物も含む東京の街自体が大幅に改変されていった時期だ。もてなす交通機関もかなり直前に整備されている。

市川崑による記録映画『東京オリンピック』を見ると、沖縄から広島を経て東京に入る聖火の様子が映し出されている。2021年のように広告をベタベタと載せたトラックなどはなく、聖火ランナーとそのあとをついてくる幾人かのランナーと警官隊というシンプルなものだ。

 

そんななか、当時の文化人たちはどう反応していたのか。『1964年の東京オリンピック』(2014、河出書房新社)に当時の記録がまとまっている。それを読むと、9月の時点で松本清張はずいぶんウンザリしている。「こんど、東京にオリンピックがはじまってもなんの感興もない。ただ、うるさいというだけである。何かの理由で、東京オリンピックが中止になったら、さぞ快いだろうなと思うくらいである。」小田実も批判している。(懸命なアスリートもいれば、昼寝でもしてたいという人もいるのを認めたうえで)「オリンピックとなると、そうもいかなくなるらしい。そういかなくさせるのが「政治」だろう。「政治」は後者のヒルネ組をまるで「非国民」扱いをする。ヒルネ組の住まうところをないがしろにする。」

 

いっぽう、三島由紀夫はオリンピックを大絶賛している。豊かな表現で開会式やアスリートの様子を描写していて、ハマりまくっているさまが伝わる。ナショナリズムの傾向を見せる少し前の三島の姿だ。三島と司馬遼太郎大宅壮一の鼎談も興味深い。中国の核実験など(これによって共産党内での論争が起こったのもこの頃)当時の時事ネタを絡めて話しているのだが、司馬が「ぼくは世界は産業技術で分けられるべきだと思っています」と言っており、まるで21世紀のグローバル世界を予測しているかのよう。

 

当時のアートとオリンピック

開会式で、黛敏郎電子音楽「カンパノロジー・オリンピカ」が流れたのも、当時の人々の印象に残ったようだ。お茶の間に電子音楽が流れた初期の出来事だ。三島はオリンピックの楽しい雰囲気のなかで「じつに不似合なものだった」と厳しい。かたや大江健三郎「梵鐘を基調にして電子音の効果をくわえた音楽、それはなんとなく人を喰った陽気なところのある、そしてまた梵鐘らしく陰陰滅滅としたところもある、おかしな電子音楽だ。それは微笑をさそう。」と、じつに楽しんでいる。

 

Soundcloudでその音源(1970年Ver.)を試聴することができる。エレクトロニカを聴き慣れた現代の耳でも、聴き応えがあるはず。今年7月に塩谷宏『音の始原(はじまり)を求めて<2021版>』が発売されており、そちらに収録。

Stream Olympic Campanology (Admission)_Toshiro Mayuzumi by The Beginnings of Japanese Electroacoustic | Listen online for free on SoundCloud

 

 

オリンピックに触発されたアーティストの動きとして有名なのは、開催中の10月16日に実施されたハイレッド・センターの「首都圏清掃整理促進運動」だ。都内の整備が進むなか、突然路上を念入りに掃除しだすというパフォーマンスについて、メンバーのひとり、赤瀬川原平の回想では、白衣を着ていると「オオヤケ」の雰囲気が出て、交通を妨害するようなパフォーマンスでも市民は従ってくれたと記している。意図せず権力構造が露出するような作品となったのだった。

この回想が記された『東京ミキサー計画』の巻末には、当時の詳細な年表がつけられているのだが、それを見ると、1964年10月に「東京NO-OLYMPIC大会」というイベントも行われていたらしい。土方巽松田政男が「芸術」を競い合うという内容だったらしいが、それ以上の詳細は分からない。

 

21世紀のオリンピック

1964年9月1日付『朝日新聞』に掲載された、星新一「オリンピック二〇六四」という短編がある。2064年の時点ではオリンピックは毎年開催されており、開催地まではロケット機ですぐ着くので選手も観客も自宅から出かけてくる。医学的装置によって選手は体力もメンタルも最高のコンディションに仕上げられる。しかし、表彰やら国旗掲揚などはすべて古式にのっとっている……といったSFだ。

勝ち負けなどをめぐってオリンピックのなかでは観客同士のごたごたも起こる。そんな不穏な状況を察知したら、鎮静作用をもたらすガスが客席に満ちて、さわぎはおさまる。

これらは荒唐無稽に見えるだろうか?  どうもそうも思えないなと考えてしまう昨今である。

 

<参考文献>