パンス年表が1968年から始まっている件

なぜ「我々はあしたのジョー」だったのか

以前、日本の歴史や文化にとても詳しい韓国の友達とお酒を飲んでいるときに、こう問われたことがあります。1970年、赤軍派メンバーがよど号をハイジャックした際、「我々は『明日のジョー』である」という声明を残しているが、「あしたのジョー」自体にはとくにポリティカルなメッセージもなく、矢吹丈は極めて個人的な心情から闘うキャラクターだ。これはとても奇妙で、なぜ成り立つのかと。すごく本質的な質問だ! と感激し、いろいろと答えたりして盛り上がりました。

 

「60年代末に盛り上がった学生運動はその後敗北し、その後は経済一辺倒のカルチャーが日本国内を覆い、政治的な関心も後退していく」というのはこの時代から現在にかけて語る際の一般的な見方で、大まかに捉えればそれで正解なんですが、より精緻に見ていけば明確な転換点があるわけではなく、数十年かけたグラデーションになっているといえます。「パンス年表(通称)」ではその流れが「擬似的に体感できる」ような内容にしたいと思って項目を入れていきました。そんなわけで、政治的行動のレベルでは極点に達したと考えられる1968年から開始しています。

 

パンス年表について「なぜスタートが1968年なのか?」と聞かれることも多いので、本稿ではその説明を行います。まず端的に書いてしまうと、「現在に直接つながっている過去」の始まりが、この頃にあると思っているからです。例えば、2021年のいま日本や世界で起こっている「問題」ってどんなものだろう?  との問いに対して、政治や社会に多少関心がある人なら、環境問題、マイノリティの問題、女性の権利、住民の権利、消費者運動など……を挙げるかと思います。それらの問題が本格的に問われるようになったのが(おおよそ)この頃です。例えば60年代中頃までは、工場用水もガンガン垂れ流しで、空気も悪い、高度経済成長期でもありとにかく経済優先。昨今では「三丁目の夕日」的に理想の時代として回顧されがちですが、実際のところ多くの庶民にとってはハードな時代でした。そして、野党勢力労働組合もさほどそういった問題には関心がないという状況でした(もちろん、皆無だったわけではありません! 念のため)。しかし、68年頃からは徐々に法整備されていきます。

 

社会への問いが、それまでは強大な権力への抗議や経済格差の打開、すなわち階級闘争だったのが、より個人の生きやすさ、豊かさ、価値を求める方向に変わったのがこの時代です。そして、それは主に西側先進国を中心とした全世界的な動きでした。歴史学者ウォーラーステインはそれを「世界革命」であり、決定的な歴史の転換点であったと評しています。革命といっても政治体制が変わるタイプの転換ではなかったというのもポイントです。日本でも、学生運動は盛り上がりまくっていましたが、結局自民党政権自体はびくともしませんでした。では、何を変えた(変えようとしていた)のか。システム自体です。そのシステムとは何か。第二次世界大戦後に西側世界で形成された、リベラル・イデオロギー、そして見かけのリベラルさに隠された保守性や企業社会であるといえます。

 

システムへの反抗 、個人と価値の拡大

ここでちょっと回り道をして、1969年に第1作が公開された「男はつらいよ」について書きます。下町の団子屋で育てられたさくらは東京の企業で働いており、その会社内でのお見合いをしたりします。そこに寅さんがなかば「乱入」し、空気が読めない発言を繰り返して顰蹙を買うというシーンがあります。本作が公開された時代において、「東京の企業」は戦後〜高度経済成長期に形成されたシステムであり、下町の団子屋的な存在はその後徐々に後退していきます。さくらのお見合いシーンではその二者が「階級」の差として描かれますが、その階級構造が当時の日本の社会そのものでした。しかしここで登場し、構造のなかで浮いてしまう寅さんは第3項的。社会の外で漂泊する「フーテン」です。

 

ちょっとややこしいのですが、1968年当時に社会変革を目指した若者の間では寅さんは別に支持されていません。むしろ寅さんはシステムから弾き出された過去の象徴として、ノスタルジーを求める大人に受け止められました。しかし、当時のユース・カルチャーのなかにも「フーテン」という層は存在しました。「人呼んでフーテン」といった具合に自己規定するさまには共通する部分があります。また、似たような志向として、学生運動の担い手のなかでは、やくざ映画を観るのが流行っていました。そこには、社会の外部にいるアウトローに、自由を求める自分を重ね合わせる心情があったといえます。このように考えると、ひたすら「個人的に戦い続ける」「あしたのジョー」における矢吹丈も、心情のレベルで移入できる存在だったと分かってきます。

 

ここで一旦まとめると、1968年前後というのは、個人がより自由になろうとする、個人的な価値を求める生き方や運動が提起された時代だったということになります。そしてそれは当初政治運動という形で発生しましたが、日本においては徐々に政治方面へのアプローチが後退し、「価値」や「自由」の部分が拡大するようになります。これが「パンス年表(通称)」で示したかった「サブカルチャーの歴史」そのものです。

 

はっぴいえんどの政治性

さて、先日「美学校」で開催されていた講座「ゼロから聴きたいシティポップ」はとても面白い内容でした。「シティポップ」の系譜を、その時代の社会の変遷から再解釈していくスタンスはとても有意義で、自分にとっても刺激になりました。とくに、その始祖といえるバンド、はっぴいえんどを「風景論」の観点から再度考えてみるという試みは新鮮で、見終えてから僕もいろいろと思考をめぐらせました。「風景論」はそのなかでもいろいろと議論があって一口に定義するのは難しくもあるのですが、当初提起した松田政男の論に従うならば、権力というものが「風景」のなかに偏在し、それを撃つ、という思考と実践は、具体的な権力を名指し闘うのではなく、その背景にあるシステムを露出させるという試みであり、これもまた1968年前後における闘争の一形態です。そこにはっぴいえんどが共振していたという仮定にはとても興味を惹かれます。

 

また、本講座を受けて『風街ろまん』のジャケ/内ジャケが、漫画家の宮谷一彦が描く「風景」だったという指摘もあり、膝を打ちました。宮谷自身が極めて観念的な政治志向をマンガに落とし込む作家でもありましたが、その観念はどのようにできているのかというと、じつは本人が1969年には昭和維新連盟という右翼の大物・西山幸輝の娘と結婚しており、以降は右翼思想もなだれこみつつ、大江健三郎大藪春彦、ジャズやロックの要素も入っていてアマルガム的です。このゴチャゴチャ感というのは、はっぴいえんどメンバーの嗜好性のようでもあり(1st『ゆでめん』のブックレット)、一見作風は正反対のようでじつは近いかも、と気付かされました。

 

最後に、年表のおすすめに戻りますと……、記事のはじめに「明確な転換点があるわけでもなく」と書いたのは、上記したはっぴいえんどの件など、細部から重要な要素を掘り起こせる可能性はまだまだ残っており、特定の転換点に依拠するような「史観」にまとめてしまうとそれらが見落とされてしまうおそれがあるからです。パンス年表(通称)はやたらとさまざまなジャンルの細かいデータがひたすら載っていますが、それは細かいデータが単に好きというのもありつつ、マクロに考えるにあたっても、関係なさそうなデータの連なりが新たな可能性の発見につながるのでは、というねらいがあるからです。そんなわけでパンス年表(通称)をぜひよろしくお願いいたします。