年表で見る!『花束みたいな恋をした』

すでに各所で話題を呼んでいる映画『花束みたいな恋をした』。とりあえず友人たちにはもう語り尽くしてしまったし、感想を発表するかどうか迷っていたけど、ほぼ時系列で、舞台となる年がきっちりテロップで出るという、年表好きとしてはバッチリな内容ということもあり、僕も書いてみることにしました。自分で作った年表を眺めつつ、自分語りと物語を重ね合わせてみます。すでに観た人向けです!

 

2015年

正直この年はISによるテロ安保法制の件でもちきりで、僕(パンス)はほとんど文化的なものに触れておりませんでした。明大前駅で絹(有村架純)と麦(菅田将暉)が出会いリアル押井守を発見していたころ、そのほど近くに住んでいた僕は、ジュンク堂書店さんのフェアの影響などがあり丸山眞男などを読んでいたので、だいぶサブカルじゃなくなっていた時期である。絹と麦はTwitterをやっている様子が一切出てこないのですが、一応アカウントは持っているはず。誰かのリツイートで政治のニュースなども流れてきていたでしょう。サブカル方面の固有名詞はあまり分からなかったけど、ロケ地を知り過ぎていたのでそこで刺さるという得難い体験ができました。二人が歩く甲州街道沿いもよく通ってたところだったし。

 

2016年

麦はイラストを描く仕事を始めましたが、芽が出ず、単価を下げられていきます。しかしこのイラストがとても良いのでいちいち気になってしまいました。このクオリティなら、もっと良さげなところに売り込めば人気者になれたはずなのに……。麦のイラストの代わりに使われてしまう「いらすとや」がスタートしたのは2012年。絹は就職活動を始めるものの、圧迫面接に苦しみます。そんな企業に対して怒りを露わにする麦。就活を描いた朝井リョウ原作、三浦大輔監督の映画『何者』公開が10月15日。

 

2017年~

麦が物流会社に就職。そこでの労働に追われ、かつて好きだったカルチャーからはどんどん離れ、とうとうパズドラをやるように。2012年にリリースされた「パズル&ドラゴンズ」は、いわばテン年代における「娯楽の表街道」を走り抜けていたといえるでしょう。二人の関係もぎくしゃくしてきます。かつて圧迫面接に怒った麦も、「仕事」という概念を内面化し、結婚や家庭を絹に求めることで状況を打開しようともがくようになりました。すでにある制度を受け入れることが成長することなんだという確信に対し、いっぽうで絹はそういった構造に違和感を覚えているように見えます。『82年生まれ、キム・ジヨン筑摩書房、2018年12月刊行)は出てきませんが、それまでの趣味を思うと手に取っていたかもしれません。

 

まとめ

「王様のブランチ」の映画紹介ばりにあらすじを追ってしまいましたがこのへんで止めます。自分としてはごくごく単純に、労働の大変さと社会の構造自体が問題なんだ〜、企業が余裕のある労働条件さえ整えればカルチャーから離れなくても済む!という結論に。しかし、それ自体が問われることは(少なくとも物語上は)ありません。ここでポイントなのは二人ともとても「いい人」で、つねにお互いを気遣っています。残業している麦の同僚がどちらかというとチャランポランな男で、そのふるまいに苛立ってしまうというシーンがあるくらいにはマジメです。

 

「いい人」による安定した空間が外的な要因で壊されるのなら、やっぱその「外側」が問題じゃんと僕は考えます。しかし、さほどそういう受け取られ方がされているようには見えません。二人が社会にもまれて成長し、それぞれの人生を歩み始めるという流れは現在の社会ではスタンダードであるゆえに、共感を呼んでいるようです。あれ?  これは僕の読みがおかしいのか……? と思わず友人たちに相談してしまうほどでした。

 

そして気になるのは、この映画のなかで出てきたカルチャー群そのものが、物語のなかで描かれる構造には影響を与えていないという点です。あくまでも会話のなか、風景のなかのアイテムとして出てくるのみ(絹が読んでいる架空のブログは影響してるか。あと、偶然接触したAwesome City Clubのメンバーが、カルチャーの世界で活躍する人物として二人の対になる役割をはたしていますが)。社会構造の問題やそもそもの主題である恋愛と、カルチャー群は切り離され、「上モノ」としての機能となっています。「二人はカルチャーにあまり貪欲ではない」という評も多く見受けられますが、それは「そういうキャラクター」であるというより、その切り離しから生じていると見ることもできるでしょう。

 

といった映画であることを前提としたうえで、やはり僕は「カルチャーがもっと二人に影響を与えてよ~~」と考えてしまいます。なぜなら、自分自身がこの歳になっても「そういうこと」に夢中で、いまもそんなブログを書いているからにほかなりません。さらに言うと、カルチャーが、個人の成長のなかである種「乗り越えられるべきモノ」として存在しているという構造や、それが世間の常識であるという風潮に対しては疑義を呈したいです。人々による表現は、いま生きている社会に対して仕掛けられた爆弾のように存在しているほうがいいと思います。といった意見がナイーブすぎると言われてしまうであろうことは承知のうえで。

 

そして人生は長い。これから二人が、カルチャーがどうなるかは分からない。

 

というわけで、30代編も楽しみにしています。

 

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