令和に考える「総力戦」

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 先月公開された『シン・エヴァンゲリオン』を観るにあたって、アニメ素人の自分が旧作や新劇場版を観返す日々が続いていたのだが、全編にわたり「総力戦」という言葉がチラホラ出てくるのがなんとも気になった。「総力戦」というのは、軍事力だけでなく、科学・経済・思想に至るまで国の持てる力を統制・総動員して闘う、ということだ。実際、『エヴァンゲリオン』はそうやって使徒と戦う姿を、わりと具体的に描いている。電力を集める「ヤシマ作戦」などが典型だ。そんな物語が生まれて10数年後、2011年には現実の日本で「電力を調整するために節電を行う」という状況が発生してしまい、すかさずインターネットに「ヤシマ作戦」という言葉が飛び交ったのは記憶に新しい。しかしエヴァンゲリオンが電力で動いているんだというのも「それはそうか」という感じではあるが、インフラ状況を克明に描きたがるフェティシズムのような感覚が垣間見られて、僕は観ている間そういう箇所ばかりに注目していた。逆に『エヴァンゲリオン』を語るにあたり話題になっている自意識や成熟を問うといった側面などは、まあ、現代においてそのような物語になってしまうのは妥当以外の何物でもないと、わりとすんなり受け入れてしまうようなところが自分にはある。思考のクセのようなものだ。そういうところでどうにもトレンドに乗れない僕自身の自意識が首をもたげてくるんだけど……、一旦置いておこう。

 さて、ちょうど「エヴァンゲリオン」テレビ版が放映されていた1995年11月に初版が刊行された山之内靖、ヴィクター・コシュマン、成田龍一・編『総力戦と現代化』(柏書房)を読んでいて、つい先日読了した外山恒一『政治活動入門』(百万年書房)で提出された歴史観にも通じるなと考えたりしていた。

 『総力戦と現代化』の編者、山之内靖はこのあとも総力戦分析の本をたくさん残している。この言葉からまず想起されるのは戦時下の日本だろうけれども、民主主義を旗印としたアメリカも、ファシズム体制下のドイツも「総力戦」をやっていたことに変わりはない。例えば世界恐慌後におけるアメリカのニューディール政策であったり、戦後の日本における、例えば終身雇用制度でもなんでもいいのだけど、いわゆる政治における社会福祉的な側面、社会主義的な傾向というのも、ひとびとを国家のなかに包摂するという意味では総力戦にとって重要な要素であり、戦後民主主義的な体制と「戦時下」はシステム的には地続きであるという提示をしていて、これは『政治活動入門』における「第一次世界大戦から現代に至るまで戦争は続いている」(『戦後史非・入門』)といった歴史的アプローチと通じている。戦後民主主義的な体制が「総力戦」の延長と捉えるのならば、現在までそれは持続していると考えることもできるけれども、ここ1年以上covid-19禍と「戦っている」日本政府の場当たり的な様子を見ていると、中身が相当グダグダになっているのはすぐに分かる。唯一残っているのは「みんなで我慢しましょう」という精神性と、相互監視で乗り越えようといった国民にアウトソーシングするような態度であって、とにもかくにも低コストの対応しかできていないのが現代日本だ。そんな現実に対し、ボケっとした政府を後目に若き官僚が柔軟な手法で総力戦をやるぞというのが『シン・ゴジラ』で、『エヴァ』もテレビシリーズの時点で政府の無策とネルフが対置されたりしていて、そういった描写は「改革」という言葉に象徴されるような平成の政治精神の反映と考えてよいと僕は思っている。かつ、現代の日本政治がイメージとしての「戦争」というビジョンを上手く使おうとしているな、というのは、これを書いている間にちょうど小池百合子も「総力戦」という言葉を発していたけれど、サブカルチャーからの想像力が影響を及ぼしているといって差支えなさそうだ。今回も再び「ヤシマ作戦」という言葉が飛び交っているように。