時代の自意識

一ヶ月ほど前にある人と話していて、その方が「時代の自意識」と仰っていたのが頭に残っていて、いまもよく反芻している。ある時代というのは、後年「こういう時代であった」とまとめられがちで、それが「時代の自意識」だ、と僕は解釈した。まとめるという行為の結果として、その時代を生きてきた個人の経験から見た「時代」とはズレるという状態が発生する。僕が個人の経験に興味を持ってしまうのは、そのズレを認識したいからといった要素が強い。

例えば、80年代から90年代に移り変わる頃は「80年代はスカだった」(音楽ジャンルのスカじゃなくてカスみたいな意味のほうです)といった言説がたくさん打ち出されていたけれど、それもまた「時代の自意識」をまとめたい、提示したいという欲望の現れなんだと思う。現れ方としては、「あの頃はよかったね」的なパターンと、「スカだった」的な反動パターンに大別されるだろう。また、時代がさらに進むと、ファンタジーのようにパッケージされることもある。「三丁目の夕日」パターンだ。

僕は基本的に、過去とは何だったのか、といったようなことを書いたり話したりする機会が多いので、「いつまでやっているのか、90年代おじさんなのか」などと友達にからかわれたりすることもあるのだが、まあもっともだ……と思いつつ、こんな問題意識も抱えているーー過去を振り返りどうまとめるかという作業がからかいの対象になってしまうと、現代を認識することもままならなくなってしまうのではないか。なぜなら、現代もやがて過去になってしまうからだ。僕のなかに過去に対する執着があるのも事実なんだけど、つねに現前して流れていく情報を見るにつけ、これらはどう「まとまる」のかな、ということも気にしている。

そして、近いうちに現代に対する反動が起こるとも考えている。それがどんな形になるかはまだ掴めないが、もっとも重要なのってそこかも、と思い始めている。つまり、現代にも「時代の自意識」はあり、それをどう捉えるかをつらつらと考えているというわけだ。