渋谷のMIYASHITA PARKを歩いた

じつに久々に、渋谷の街を歩いたような気がする。以前の記憶は、冬にゲラを持って渋谷駅南口をウロウロしていたというもので、もう駅はリニューアルしていたのだが、あまりに様変わりし過ぎていて途中で自分がどこを歩いているのか分からなくなってしまった。キョロキョロと周りの風景を見ても「渋谷」と結び付かず、どちらかというと町田駅前にいるような錯覚に陥ったりと、強烈な体験だった。

ハチ公前もなんだか違う飲食店のようなコンテナのような建物が設置されていた。じつは「MIYASHITA PARK」に足を踏み入れたことがなかったので、今日この機会に散歩したのだった。まず目を奪ったのは以前からあった歩道橋で、これは2003年ごろに行われていたサウンド・デモの出発地点だが、その橋が当時のまま、出来上がったばかりの綺麗なバルコニーに接続されていた。そこから中に入ると「筋肉食堂」という奇妙な名前の飲食店から肉の焼ける匂いが漂ってくる。どこか「MUJI無印良品)」を想起させる「KINNIKU」というロゴの下で人々が食事をしている。

屋上は公園になっていて、写真などで存在は知っていたが、想像していたよりずっと雑然として見えた。キープ・ユア・ソーシャル・ディスタンスとあちこちに表示されているものの人がひしめき合っていて、クレープを売る露天が出ていたり、活気がある。ボルダリングや、ビーチボールをやるための砂浜まで出てきた。

かつて公園のそばにあった飲んべえ横丁は健在で、前は立ち並ぶ建物や公園に囲まれてひっそりとしていた印象だったが、いまはどちらも消えたので、街の中で浮き上がっているように見えた。近くには「渋谷横丁」という、MIYASHITA PARK内の居酒屋街も出来ていたが、とくにお酒を飲みたい気分ではなかったため、立ち寄らず。次に機会あれば。

時代の自意識

一ヶ月ほど前にある人と話していて、その方が「時代の自意識」と仰っていたのが頭に残っていて、いまもよく反芻している。ある時代というのは、後年「こういう時代であった」とまとめられがちで、それが「時代の自意識」だ、と僕は解釈した。まとめるという行為の結果として、その時代を生きてきた個人の経験から見た「時代」とはズレるという状態が発生する。僕が個人の経験に興味を持ってしまうのは、そのズレを認識したいからといった要素が強い。

例えば、80年代から90年代に移り変わる頃は「80年代はスカだった」(音楽ジャンルのスカじゃなくてカスみたいな意味のほうです)といった言説がたくさん打ち出されていたけれど、それもまた「時代の自意識」をまとめたい、提示したいという欲望の現れなんだと思う。現れ方としては、「あの頃はよかったね」的なパターンと、「スカだった」的な反動パターンに大別されるだろう。また、時代がさらに進むと、ファンタジーのようにパッケージされることもある。「三丁目の夕日」パターンだ。

僕は基本的に、過去とは何だったのか、といったようなことを書いたり話したりする機会が多いので、「いつまでやっているのか、90年代おじさんなのか」などと友達にからかわれたりすることもあるのだが、まあもっともだ……と思いつつ、こんな問題意識も抱えているーー過去を振り返りどうまとめるかという作業がからかいの対象になってしまうと、現代を認識することもままならなくなってしまうのではないか。なぜなら、現代もやがて過去になってしまうからだ。僕のなかに過去に対する執着があるのも事実なんだけど、つねに現前して流れていく情報を見るにつけ、これらはどう「まとまる」のかな、ということも気にしている。

そして、近いうちに現代に対する反動が起こるとも考えている。それがどんな形になるかはまだ掴めないが、もっとも重要なのってそこかも、と思い始めている。つまり、現代にも「時代の自意識」はあり、それをどう捉えるかをつらつらと考えているというわけだ。

原点から考える

昨日は美学校でのTVOD講義でした。さすがにイベントがある日はブログ更新ができなかった。例外ということでご容赦頂けますと幸いです。

 

『スペクテイター』特集「土のがっこう」を読む。小泉英政(小泉循環農場)さんのインタビューが良かった。1965年からの新東京国際空港(成田空港)建設反対運動をきっかけに、いまも三里塚で農場を営んでいる。強制代執行というのは生活を奪うもの、というのがいままでの自分の認識だったが、同時に「土」も奪われる。舗装されてしまう。

「土」というのは極めて普遍的なテーマだといえるが、普遍的な設定から辿っていくことで歴史の違った側面を見せることもできるんだな、と気付かされた。「原点が存在する」(谷川雁)という言葉も思い出す。

 

Spotifyが選曲してくる

夜、帰り道にSpotifyを立ち上げたら、2020年に自分が聴いた曲たちが勝手にまとめられていた。

さすがにここまでやられると「ウグッ……」となってしまう。ウグ、というのはそんなSpotifyの機能に感心し舌を巻いているのではなく、もともといろんな音楽を自分でまとめるのが好きな性分なので、勝手にまとめないでくれよという思いの表現だ。細野晴臣メディスン・コンピレーション』が厳かなイントロになってるし、ビートたけし「TAKESHIの、たかをくくろうか」を再生しすぎていることも分かった。

そして、なんとか年末までに「自分で選んだ」2020年ベストを作らねばという意思も固まった。しかし、今年はわりと「Spotifyが選んだ」自分のスマホで再生されたなかから「自分で選んだ」ベストになってしまうかもしれない。それでも構わないと半分くらいは思いつつ。「半分人間」だ。

終末に向かって

12月になった。僕は年末になると妙にテンションが上がってしまう性格で、急に毎日日記を付け始めているのもそのせいかもしれない。終末に向かっていく感覚が気持ちいいというのもあるし、周りも少し浮足立っているのがよい。かつて鶴見済がコラムで、一年で一番いやな日は1月4日だと書いていた。大晦日までの気分と正月休みを抜けて、テレビも通常の番組に戻ったりしてつまらなくなってしまうからだ。子どもの頃読んでえらく共感したのを覚えている。そんなわけで、小さい時分から年末好きだったのだ。90年代半ばくらいまでは、年末番組の世界が狂気じみて見えたものだ。いまでは到底不可能な企画も多かったと記憶している。その頃を懐かしく思ったりはしないのだが……、「絶対に笑ってはいけない」シリーズが始まってから、なんだかなあと感じるようになってしまった。面白さがどうこうではなく、リアルタイムではない放送に対してテンションが下がってしまうのだ。

大人になると、忘年会のようなイベントもある。率先して楽しむほどではないものの、会場を出てキンと冷えた冬の夜、友人と歩いたりするのは好きだ。しかし、今年はCovid-19のせいで難しくなってしまいそうだ。未知の大晦日を迎えようとしている。

ぴえん が今年の新語大賞

体調はすこぶる良くなったものの、またパソコンに向かって作業し続けていたら、肩こりがひどい。鋼のようになっている。姿勢が悪いのがよくないと分かっているのだが。家にいる間だけでも養成ギプスのようなものをつけるべきかもしれない。

 

ぴえん という語は「ぴえん」を表す顔文字と分かち難く結びついているという認識でよいのだろうか?

ひとびとのtwitter、ひとびとの生活

どうにも身体がだるく、チョコラBBを飲みながら書いている。昨夜寝ている間に次のタイトルをぼんやりと考えていたのだけど、「ど〜する!? twitterの使い方」とか、「朝まで生テレビ」風の言葉しか浮かばず、つらかった。

体調悪いし今日は更新をやめとこうかなという思いも頭をよぎったが、そんなことではいけない。

風邪薬の類はいったん症状を抑えてくれるので、治すというよりは「先延ばしにする」という効果があるのだなと、いまさらながら思う。先延ばしにしている間に身体を活発に動かしておけば治っていくのだろう。しかし家で延々とパソコンに向かって作業をしているので治る契機が失われているともいえる。なんて言葉にしていくとたいそう大げさになってしまうが、普通に活動できています……。

 

いまのtwitterからはひとびとの生活が見えないといったことを書かれている方がいて、まったくその通りだと頷いた。理念だけが書いてあるみたいなパターンをよく見るけれど、僕としては美味しいお店とかを知りたい気持ちのほうが強いので、あまり目的にかなわないものになってしまったなと独りごちる。なので、このブログでは体調が悪いとかこれを食べたといったような事象についても記述していきたい。というより、そのあたりについても書かないと毎日続けられないのだった。