キャラクターと歴史認識

「総理倶楽部」というコミックの告知が話題になっているが、まず、キャラ化している対象が戦前か戦後かが気になる。「倶楽部」という単語のセレクトからは戦前っぽさを感じるけれど。例えば伊藤博文にしても日本国内と海外では評価がまるで違う、というのはもう広く認識されているものだと思っていたけれど、そんなことはなかったようだ。そもそも「日本帝国主義」というのも、国内だと通過した歴史のひとつくらいに捉えられているかもしれないが、日本国外だと意味合いは異なる。

戦後だったら民主主義だからセーフというわけでもなくて、田中角栄なんかはいまでも剛胆な人物として日本人にとても人気だが、1974年に東南アジアを歴訪したときには抗議デモがあったなんて話はあまり語られない。インドネシアでは暴動も起こっている。戦後日本にも、ポストコロニアル的な問題というものが横たわっているのだ。

とにかく、読んでみないことにはよく分からないけれども、こと日本においては歴史認識が断片的で、「幕末」とか「戦争が終わった」とか「関東大震災があった」といったような極点のみが共有されていて、その連続性に対する視点が足りていないのではないかとよく思う。なので当時の人物を、事実とは関係なく創作のなかでのキャラとして独立させやすいのかもしれない。

 

朝から身体のふしぶしが痛くて、完全に風邪である。なんとかカレーを食べて、栄養ドリンクと風邪薬を投入したら治ってきた。この週末はぶっ続けで作業し続けないといけないので、寝込んでいる場合ではないのだ。

現代の安心について少し

相方のツイートが(モーリー・ロバートソン氏からの『補論』も含め)なんかバズっていた。Twitterというのは断片的なので、僕はあまり「全集中」して読んでいないのだけど、せっかくなので口を出していこうと思う。とはいえ、僕はツイートに何個もぶらさげるタイプの文章を書くのが苦手なので、最近ひっそりと始めたこのブログに、思いつくままダラダラと書く。

 

ここ最近のインターネットでは「主語がデカい」意見は敬遠される傾向にあり、なぜならデカいと思わぬところに炎が燃え移ってしまう危険性があるからで、かくいう僕も主語デカツイートをするのは控えているつもりではあるが、友達と対面で話すときはガンガン主語をデカくすることも厭わない。それは、あまりにデカかったとしても会話のなかで補完していけるからだ。なのでデカくすること自体が悪いとは思わない。例えば「近代」というのも極めてデカい。なぜなら、そう発話(ツイート)する側も、読む側も、みんな近代以降に生きているからだ。そもそも近代とはどこを指しているのか。政治的にはウェストファリア条約以降、哲学ならデカルト以降、美術ならロマン主義以降といった具合だろうか。これはヨーロッパの話で、日本だったらまた異なるだろう。明治六年政変/西南戦争以降か、日比谷焼き討ち事件以降かといった具合に。そういうところにこだわりたい。完全に面倒な人間として処理されてしまうことを覚悟で、会話ならそうやって突っ込めるのだが、ツイートだとやりたくない。クソリプっぽくなってしまうから。

冒頭で触れたバズツイートでも「近代」というワードが出ていたが、クソリプをせずにあくまで想像すると、ここで措定されている「近代」とはメディアの登場以降になると思う。メディアとは近代以前からあるといえるので、ここで指すのはいわゆる印刷――新聞以降くらいかな。プロパガンダみたいなのも「以降」に起こったことだ。やがて既存のメディアそのものが権威化して、インターネット以降だとそこに対する批判も盛んに行われている。マスゴミという単語もある。韓国だとキレギというらしい(記者+ゴミでキレギ)。しかし、それらが既存のメディアを覆すかといえば、そうはならず、むしろ共犯関係にあるといえる。以前、日本学術会議の任命拒否についての報道を見ていて印象的だったのは、どこかのメディア(テレビ)がテレビで妙なデマを流したら、それがまとめサイトに掲載されて、ネットにばらまかれるという動きだった。日頃マスゴミと言っているような人たちも、テレビをもとに「社会を見ている」のだ。

その関係性を見て愚かだなという判断はたやすいのだけど、そういう意見に触れるたびに、分かるけれども、受け手——つまり個人の能力的な部分に原因を求めすぎているのではないか? となる。むしろ問題の全体を見ると、いまの社会ってセラピー的だと僕は思っている。インターネットで荒れ狂っている人は一見怒ってるけど、そういった事象も含めてセラピーっぽい、言い換えると安心したいという欲求が強いのだと思う。なので、安心できるような、日々のムカつきや不安を簡潔にまとめてくれたり、励ましてくれるような言葉というのは非常に人気がある。それが一見煽動のような言葉であってもだ。安心できるならウソでもいい、というのも既に示されている。

ただし、これらの源流をたどれば、べつにいまに始まったことでもないし、インターネット以前からずっとある。相田みつをにんげんだもの』(文化出版局)の刊行は1984年だ。本だったりすると分かりやすいけど、企業が安心を販売している。それが個人でも気軽にできるようになったのがここ20年くらいといったところか。つまり、後期資本主義の特徴なのだ。コロナ無害論などは、それをあまりにも端的に示しているといえる。

つまり何が言いたいというと、安心の向こう側に行くのが重要なのでは?ってことだ。むろん、みんなが安心できる環境を作るのは大切だけども、かといってすべての言葉が安心に集約されてしまうのには違和感がある。そんなわけで、この文章も適度な落とし所ないし、あんまり安心感ないと思う。それでもダラダラ書き続けるのが良いと判断しているので、無問題だ。

 

 

行きたい場所、行けない場所

忙しくて余裕がない。1日が36時間くらいになってほしい。

 

私は月には行かないだろう、というのは小室等のアルバム名だが、そういえば僕も月には行かないまま一生を終えるのだろう、と考えたら急に侘しくなってきた。しかし、それほど宇宙に行きたいとは思わない。体を壊してしまいそうだから。それより地球上のいろいろな場所に行きたいが、それも生きている間にどこまで制覇できるだろうという感じだ。日本ではあまり話題にならないが、いま起こっているリビア内戦の記事を読んだ。

ブログをやりたい

じつはゼロ年代半ばに はてなブログをやっていたので、15年越しくらいでの再開となる。いまやスマホで書いてアップできる。当時ガラケーで書いていたかどうかは思い出せない。

ただダラダラと書いたものを世界に放流したいという欲求がある。 現代ならそれはTwitterでやるべきなのかもしれないが、Twitterにダラダラと書くことができない。なんとなく「いいこと」を書かないとといけないというのと、書いたものがどこまでも遠くに届いてしまう恐怖を感じるので、結局最大公約数的にみんなが納得できそうなことしか提出できないのだ。

 

今日は三島事件から50年目であった。とくにこれといった感慨はないが、坂本順治監督『KT』(2002年)の冒頭シーンはたしか三島事件だったなと思い出したりした。あれはなぜだったのか。それから3年後に起こる金大中事件について描いた映画である。いまの韓国における社会派映画のような要素と、日本映画っぽさが混在していて不思議な印象を受けた。

まさに金大中事件が起こった時代の韓国で逮捕・拘束されていた詩人・金芝河は、三島事件を痛烈に皮肉った詩を残している。いま1970年代前半について考えるならば、あの事件そのものよりも、その周縁で誰がどう語ったのかが気になる。