現代の安心について少し

相方のツイートが(モーリー・ロバートソン氏からの『補論』も含め)なんかバズっていた。Twitterというのは断片的なので、僕はあまり「全集中」して読んでいないのだけど、せっかくなので口を出していこうと思う。とはいえ、僕はツイートに何個もぶらさげるタイプの文章を書くのが苦手なので、最近ひっそりと始めたこのブログに、思いつくままダラダラと書く。

 

ここ最近のインターネットでは「主語がデカい」意見は敬遠される傾向にあり、なぜならデカいと思わぬところに炎が燃え移ってしまう危険性があるからで、かくいう僕も主語デカツイートをするのは控えているつもりではあるが、友達と対面で話すときはガンガン主語をデカくすることも厭わない。それは、あまりにデカかったとしても会話のなかで補完していけるからだ。なのでデカくすること自体が悪いとは思わない。例えば「近代」というのも極めてデカい。なぜなら、そう発話(ツイート)する側も、読む側も、みんな近代以降に生きているからだ。そもそも近代とはどこを指しているのか。政治的にはウェストファリア条約以降、哲学ならデカルト以降、美術ならロマン主義以降といった具合だろうか。これはヨーロッパの話で、日本だったらまた異なるだろう。明治六年政変/西南戦争以降か、日比谷焼き討ち事件以降かといった具合に。そういうところにこだわりたい。完全に面倒な人間として処理されてしまうことを覚悟で、会話ならそうやって突っ込めるのだが、ツイートだとやりたくない。クソリプっぽくなってしまうから。

冒頭で触れたバズツイートでも「近代」というワードが出ていたが、クソリプをせずにあくまで想像すると、ここで措定されている「近代」とはメディアの登場以降になると思う。メディアとは近代以前からあるといえるので、ここで指すのはいわゆる印刷――新聞以降くらいかな。プロパガンダみたいなのも「以降」に起こったことだ。やがて既存のメディアそのものが権威化して、インターネット以降だとそこに対する批判も盛んに行われている。マスゴミという単語もある。韓国だとキレギというらしい(記者+ゴミでキレギ)。しかし、それらが既存のメディアを覆すかといえば、そうはならず、むしろ共犯関係にあるといえる。以前、日本学術会議の任命拒否についての報道を見ていて印象的だったのは、どこかのメディア(テレビ)がテレビで妙なデマを流したら、それがまとめサイトに掲載されて、ネットにばらまかれるという動きだった。日頃マスゴミと言っているような人たちも、テレビをもとに「社会を見ている」のだ。

その関係性を見て愚かだなという判断はたやすいのだけど、そういう意見に触れるたびに、分かるけれども、受け手——つまり個人の能力的な部分に原因を求めすぎているのではないか? となる。むしろ問題の全体を見ると、いまの社会ってセラピー的だと僕は思っている。インターネットで荒れ狂っている人は一見怒ってるけど、そういった事象も含めてセラピーっぽい、言い換えると安心したいという欲求が強いのだと思う。なので、安心できるような、日々のムカつきや不安を簡潔にまとめてくれたり、励ましてくれるような言葉というのは非常に人気がある。それが一見煽動のような言葉であってもだ。安心できるならウソでもいい、というのも既に示されている。

ただし、これらの源流をたどれば、べつにいまに始まったことでもないし、インターネット以前からずっとある。相田みつをにんげんだもの』(文化出版局)の刊行は1984年だ。本だったりすると分かりやすいけど、企業が安心を販売している。それが個人でも気軽にできるようになったのがここ20年くらいといったところか。つまり、後期資本主義の特徴なのだ。コロナ無害論などは、それをあまりにも端的に示しているといえる。

つまり何が言いたいというと、安心の向こう側に行くのが重要なのでは?ってことだ。むろん、みんなが安心できる環境を作るのは大切だけども、かといってすべての言葉が安心に集約されてしまうのには違和感がある。そんなわけで、この文章も適度な落とし所ないし、あんまり安心感ないと思う。それでもダラダラ書き続けるのが良いと判断しているので、無問題だ。