Twitter Japanの2020年まとめと『ディスタンクシオン』みたいな話?

以前、年末が好きだと書いたけど、その理由のひとつとして、その年のまとめがなされるからというのもあった。単に、まとめを見るのが好きなのだ。ベストディスクとか。

 

そんななか、今日は苦々しいまとめを見てしまった。Twitter Japanによるものだ。「Twitter上で2020年を共に過ごした皆さんへ」というタイトルから本文にいたるまで、徹頭徹尾「煽り」に見えてしまうのは、自分自身が今年(も)Twitterにかぶりつきだったからにほかならない。ひとつのプラットフォームをあたかも世界と同一視し、一喜一憂していた自分に、ほのかな情けなさを感じながら読み通した。

 

blog.twitter.com

 

とくに、今年もっとも「いいね」がついたのは「100日後に死ぬワニ」の最終回というのに「くる」ものがある。もう誰もワニの話をしていない。もっとも引用ツイートされたのはポテトサラダだった。ぴえんはもっとも多く使われた絵文字とのこと。もうこの文字の名称は「ぴえん」で確定しているのか。

 

ただのランキングだが、日本Twitterの精神性が浮かび上がっているように思う。しかしここで考えたいのは、Twitterの外では何が起きていたのだろうといったことだ。いまだにネットの外の世界は存在しているのだった。Twitter的ニュースを誰かに話したら「それ何ですか?」と言われることもザラにある。

 

そういえばTVODが美学校のオープン講座でやっている内容は、階層や地域で文化意識はどう形成されるか、いろいろな人に話を聞きながら探るというものだ。何度か講義を行っているなかで気付いたのは、ネットにどのタイミングで接続したか/していないかといったファクターも重要な相違になっていることだった。これがより最近になると、Twitterを熱心にやっていたか、それともInstagramか、TikTokか、みたいな側面においても意識の違いが生まれてくるのだろう。言わずもがな「回線があるか」どうかが、階層として現出することになる。

そんな感じでやっておりまして、オンラインなのでまだまだ受講者も募集中です! よろしければぜひご検討ください!(最後は宣伝になってしまいました)

 

bigakko.jp

 

ミロについて

ミロの安定供給が困難になったため生産停止らしい。

そんなに人気があったことに驚き。気がつけばもう20年くらい飲んでいないが、子どもの頃は家に常備されていたのでガブガブと摂取していた。しかし、甘いものが飲みたいときに消極的に選択する対象であって、好きだったかと言われると、それほどでもない。とにかく甘いものを飲む機会が少なかったのだ。だからといって親によって規制されていたかというと、そうでもない。当時は甘い飲み物の世界を知らず、ミロによって充足していたのだろう。

 

ミロには「粉がよく混ざらない」というデメリットがあると認識していたのだが、もしかしたらいまは改善されているのかもしれない。粉が完全に溶けている「缶のミロ」は大好きだった。(あまり置いてないのだが)売っているのを見つけたらすかさず買ってもらって、大満足していた。

 

のちに「マックスコーヒー」にハマってしまったため、自分のなかでミロの存在はだんだん遠ざかってしまった。「コーヒー」を飲むのは大人というイメージがあったので、大人に憧れていた僕はマックスコーヒーを積極的に選択したのだ。味はあんなに甘ったるいのに。

毎朝のシニシズム

昨日の朝、ひさびさにバラエティ的なニュース番組を見ていたのだが、芸能ニュースというのは不思議だ。何が問題なのかよく分からないことでも問題化させている。誰もが「これは○○の問題である」と定義できないままに激論を交わしているのを見ると、これぞ究極のシニシズムだな、なんて思ったりする。

 

最近はTwitterよりテレビを見るようにしているのだが、あれよあれよと報道や議論が流れていってしまうTwitterに比べると、テレビは同じ出来事をズルズルと取り上げているように見える。このスピード感の違いが気になる。

渋谷のMIYASHITA PARKを歩いた

じつに久々に、渋谷の街を歩いたような気がする。以前の記憶は、冬にゲラを持って渋谷駅南口をウロウロしていたというもので、もう駅はリニューアルしていたのだが、あまりに様変わりし過ぎていて途中で自分がどこを歩いているのか分からなくなってしまった。キョロキョロと周りの風景を見ても「渋谷」と結び付かず、どちらかというと町田駅前にいるような錯覚に陥ったりと、強烈な体験だった。

ハチ公前もなんだか違う飲食店のようなコンテナのような建物が設置されていた。じつは「MIYASHITA PARK」に足を踏み入れたことがなかったので、今日この機会に散歩したのだった。まず目を奪ったのは以前からあった歩道橋で、これは2003年ごろに行われていたサウンド・デモの出発地点だが、その橋が当時のまま、出来上がったばかりの綺麗なバルコニーに接続されていた。そこから中に入ると「筋肉食堂」という奇妙な名前の飲食店から肉の焼ける匂いが漂ってくる。どこか「MUJI無印良品)」を想起させる「KINNIKU」というロゴの下で人々が食事をしている。

屋上は公園になっていて、写真などで存在は知っていたが、想像していたよりずっと雑然として見えた。キープ・ユア・ソーシャル・ディスタンスとあちこちに表示されているものの人がひしめき合っていて、クレープを売る露天が出ていたり、活気がある。ボルダリングや、ビーチボールをやるための砂浜まで出てきた。

かつて公園のそばにあった飲んべえ横丁は健在で、前は立ち並ぶ建物や公園に囲まれてひっそりとしていた印象だったが、いまはどちらも消えたので、街の中で浮き上がっているように見えた。近くには「渋谷横丁」という、MIYASHITA PARK内の居酒屋街も出来ていたが、とくにお酒を飲みたい気分ではなかったため、立ち寄らず。次に機会あれば。

時代の自意識

一ヶ月ほど前にある人と話していて、その方が「時代の自意識」と仰っていたのが頭に残っていて、いまもよく反芻している。ある時代というのは、後年「こういう時代であった」とまとめられがちで、それが「時代の自意識」だ、と僕は解釈した。まとめるという行為の結果として、その時代を生きてきた個人の経験から見た「時代」とはズレるという状態が発生する。僕が個人の経験に興味を持ってしまうのは、そのズレを認識したいからといった要素が強い。

例えば、80年代から90年代に移り変わる頃は「80年代はスカだった」(音楽ジャンルのスカじゃなくてカスみたいな意味のほうです)といった言説がたくさん打ち出されていたけれど、それもまた「時代の自意識」をまとめたい、提示したいという欲望の現れなんだと思う。現れ方としては、「あの頃はよかったね」的なパターンと、「スカだった」的な反動パターンに大別されるだろう。また、時代がさらに進むと、ファンタジーのようにパッケージされることもある。「三丁目の夕日」パターンだ。

僕は基本的に、過去とは何だったのか、といったようなことを書いたり話したりする機会が多いので、「いつまでやっているのか、90年代おじさんなのか」などと友達にからかわれたりすることもあるのだが、まあもっともだ……と思いつつ、こんな問題意識も抱えているーー過去を振り返りどうまとめるかという作業がからかいの対象になってしまうと、現代を認識することもままならなくなってしまうのではないか。なぜなら、現代もやがて過去になってしまうからだ。僕のなかに過去に対する執着があるのも事実なんだけど、つねに現前して流れていく情報を見るにつけ、これらはどう「まとまる」のかな、ということも気にしている。

そして、近いうちに現代に対する反動が起こるとも考えている。それがどんな形になるかはまだ掴めないが、もっとも重要なのってそこかも、と思い始めている。つまり、現代にも「時代の自意識」はあり、それをどう捉えるかをつらつらと考えているというわけだ。

原点から考える

昨日は美学校でのTVOD講義でした。さすがにイベントがある日はブログ更新ができなかった。例外ということでご容赦頂けますと幸いです。

 

『スペクテイター』特集「土のがっこう」を読む。小泉英政(小泉循環農場)さんのインタビューが良かった。1965年からの新東京国際空港(成田空港)建設反対運動をきっかけに、いまも三里塚で農場を営んでいる。強制代執行というのは生活を奪うもの、というのがいままでの自分の認識だったが、同時に「土」も奪われる。舗装されてしまう。

「土」というのは極めて普遍的なテーマだといえるが、普遍的な設定から辿っていくことで歴史の違った側面を見せることもできるんだな、と気付かされた。「原点が存在する」(谷川雁)という言葉も思い出す。

 

Spotifyが選曲してくる

夜、帰り道にSpotifyを立ち上げたら、2020年に自分が聴いた曲たちが勝手にまとめられていた。

さすがにここまでやられると「ウグッ……」となってしまう。ウグ、というのはそんなSpotifyの機能に感心し舌を巻いているのではなく、もともといろんな音楽を自分でまとめるのが好きな性分なので、勝手にまとめないでくれよという思いの表現だ。細野晴臣メディスン・コンピレーション』が厳かなイントロになってるし、ビートたけし「TAKESHIの、たかをくくろうか」を再生しすぎていることも分かった。

そして、なんとか年末までに「自分で選んだ」2020年ベストを作らねばという意思も固まった。しかし、今年はわりと「Spotifyが選んだ」自分のスマホで再生されたなかから「自分で選んだ」ベストになってしまうかもしれない。それでも構わないと半分くらいは思いつつ。「半分人間」だ。