ずっと続くいやな予感(の中で何を書けばよいのか)

高橋和巳のエッセイに「暗殺の哲学」というタイトルのものがあったと思い出し、早朝から本棚を漁って読み返していた。司馬遷カミュドストエフスキーなどを引きながら暗殺とは何かを問うが、最後に一行「この稿には何らの結論もない。」と記して締められているのでわりと驚いてしまう。しかし学園紛争の高揚するまさにその時(『文藝』1967年6月号所収)に書かれたものであると確認し、「そうだよな」と納得してしまうのだった。アクチュアルな状況に遠くから切り込むとしたら、まず結論など出ない。

 

昨日の時点でTwitterのタイムラインから雲散霧消してしまったサイゼリヤの件などを思い出しながら、改めて自分が気になる点は2つの流れに大別されるだろうと頭の中で整理していた。まずは、とにかく結論を急ぐ傾向。そして、生起した問題に対して議論めいたものがあった後に、何か一様に同じような思考のフレームがTwitter内で共有される傾向。しかも最近はこの流れが凄まじく早くなっており、だいたい2時間くらいで形成されている気がする(個人的な体感)。

 

破局的な出来事があったときに即時的に何かを言いたくなってしまうのは僕もそうで、以前はエイヤっとばかりに書いてしまうこともあったのだが、ここ1年ほどは上記のような流れに閉口しているのもあり、あまり書けなくなってしまった。それぞれがポジションを取ることで空気ができて何となく構図が浮かび上がりそれが「世論」であるといわんばかりの状況になる。これは日本特有かどうかは分からないけれども、少なくとも日本の学校の教室みたいなものだと思えてならず、教室の外だけど教室から見える廊下みたいな場所でせめて何か残しておこうと判断したときにブログを書くのだった。

 

何について書きたいかというと無論、昨日の元首相殺害事件であって、まだ情報が少ないので書けることも限られるのだが、個人的なテロである可能性は高いだろう。そして政治犯ではない、という線になっている。元首相は2010年代の長い間一国の長を務めており、それによる日本社会の変化はさまざまな人々がネットなどで大いに語ったし、今でも語られるわけだが、そのような議論からは遠く離れた場所、もしくは底流と呼べるようなところで、全くもってイデオロギーとも縁がない、敵も同志も何もない、孤独なテロが頻発しているのがここ数年である。

実のところ私たちはその事実にすでに気付いており、電車に乗るときとかにうっすらと意識することもありつつ、何となくやり過ごしながら日々を暮らしている。アメリカの銃社会を嘆きつつ、日本社会も銃が普及していないだけで水位は同じようなものかもしれない。そして今回は手製の不格好な銃が使われた。そのような現実について考えることが、現代の社会を捉えることだと思うのだけど、「犯人は自分達とは関係ない」とばかりに切断し、結論を急ぐような仕草が氾濫しているようにも見受けられ、やはりそれが引っかかる。

 

※まだ動機の全容は分からないものの「特定の宗教団体」というワードが登場している。「特定の団体」と表記している記事もあり。この点に関しても現時点で明記しておく。