2021.3.17

※2022ウクライナ侵攻に関してはたくさん書きたいことがあるのだけど、専門家でもない、一介の歴史好き、年表好きでしかない自分が何か書いたところで、床屋談義にしかならないことは自覚しており、少し足踏みしていた。けれど、床屋談義でも何か残して置いた方がいいのかもしれない、それもTwitterにポコポコと書いてツリーなんかにするよりは、ある程度の分量で、とも思い……。

 

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ゼレンスキー・ウクライナ大統領が米国議会向けの演説で真珠湾攻撃の話を持ち出したのが、日本人を微妙な気分にさせているようだ。Twitterだと、なんとなくウヨっている人に限らず、色んな人がモヤモヤしているのが見受けられる。

 

ゼレンスキーの言い分は特に奇妙なものではないだろう。まず、第二次世界大戦+太平洋戦争において、日本やドイツがかなり逸脱した行動を取り、結果敗北し、その後、敗戦国を否定した上での体制、秩序がなんだかんだでこれまで続いているなか、現在それを脅かしているのがプーチン・ロシアという見立ては間違っていないので、第二次世界大戦中(1941)に生起し、悲劇の象徴とされているパールハーバーになぞらえるのは実に妥当である。

 

そこで微妙な気分になってしまう日本人のアイデンティティがあるとすれば、実は日本人は戦後に形成された「連合国」による秩序の一員に入れてもらっているようでいて、どこかで折り合いが付いていないまま現代まで来ているということが浮き彫りになっているのではないだろうか。

 

しかし、ゼレンスキーは日本でも演説したいと言っているので、そのときは今回の発言とどう折り合いをつけるのかという疑問は湧く。日本に来たら日本人のアイデンティティを刺激するために原爆や空襲の話をするのか。そして(ないだろうけど)中国向けには満州事変の話をしたりするのか。それでは単に言ってる場所によって立ち位置がコロコロ変わる人ということになってしまう。そんなことはしないだろうとも思うけれど。

 

今回の件で問われているのはむしろ日本の方で、なんならかつては今のロシアと似たようなことをやってたのだから、まず日本人はそれをよく噛み締めておくべきなのである。戦後の国際秩序はそれが前提となっており、その恩恵を受けてここまで来ているのだから。

 

ただ、日本でゼレンスキーが演説するならば、この戦後の秩序という認識とどう折り合いをつけて話すのか、少し気になる。ましてや同じ枢軸国だったドイツではどうだろうか、などと考えていたら、もう今日の時点でドイツでは演説をしているようだ。内容はこれから確認したい。

1972年当時の有名人は、あさま山荘事件をどう見ていたのか

※書きかけのまま放置していたのですが、本日であさま山荘事件(検挙)から50年でもあり、追記した上でまとめました。なお、TVOD『政治家失言クロニクル』P-VINE)でも、本書をもとにした話をしているので、関心を持たれた方はぜひ、手にとってみて下さい。

 

以前の記事では、1968年以降の時代について触れました。当時は「スチューデント・パワー」なんて言葉もあったように、若者が主役の時代だったといえます。そんななか常々気になっているのが、同時期の「大人」はそんな若者たちをどう見ていたのだろうか、ということです。そのヒントになってくれそうな本を古書店で発見しました。『週刊現代』増刊、3月21日付「連合赤軍事件」緊急特集号です。

このなかに「日本の100人はテレビ棧敷でこう見た」という記事があります。「あさま山荘事件」について、各界の有名人100人からのコメントが列挙されているもの。ここから当時の世情を読み取ることができそうです。今回はここに掲載されたコメントと、各々のその後の活動を紹介することで、当時のリアルな雰囲気と、以降の時代を浮かび上がらせたいと思います。

 

記事タイトルにあるように、多くの人が「テレビ」を介してあさま山荘事件を体験したとコメントしています。「テレビ棧敷」というのは当時一般的な用法だったのでしょうか? みんなが事件の「観客」であったことが強調されるような表現です。

 

ここで重要なのが、この本が刊行されたタイミングです。ここで手元のパンス年表を取り出して確認しますと……連合赤軍メンバーが山荘に立て篭もったのは1972年2月19日。制圧されたのが2月28日です。この時点では凶悪な立てこもり犯が逮捕されたという出来事でしたが、事件前に起きていたメンバー同士によるリンチ殺人事件、いわゆる「山岳ベース事件」が明らかになるのは3月以降。『週刊現代』増刊は3月21日付なのでその1週間前くらいには店頭に並んでいたはずですが、おそらく急遽差し込んだであろうリンチ事件に関する詳報は別記事となっており、100人のコメントはそれ以前に収録されたようで、立てこもりとその制圧についてしか触れられていません。

 

以下、各界の人々によるコメント抜粋です。見出しのカッコ内と肩書は掲載誌に準じています。本文カギカッコ内太字が引用です。

 

赤軍は採用しない」江戸英雄(三井不動産社長)

採用しないのか……と一目で分かる見出しです。しかし、「私の会社では学生運動に参加した者でも採用している」とのこと。彼らは「組合運動はやるし、給料をあげろといってくるが、現実をふまえて行動している」と評価しています。労組の勢いが十分にあった時代だったのがよく分かります。この状況が80~90年代には縮小していきます。

 

「もう寄付はしない」北杜夫(作家)

「以前から、特に成田空港の頃から学生たちから寄付なんかを求められていました。」応援のために積極的に寄付を行っていたそうですが、「土田さんの事件」を境にやめたそうです。「土田さんの事件」とは、前年12月に起こった、警察庁に爆弾小包が送られたというテロ事件。この頃の学生運動は徐々に爆弾テロに傾斜しており、このように、良心的な人々からの支持を失う要因となっていきます。

 

「残念な殉職」田中角栄通産大臣

「三分の理もない」福田赳夫外務大臣

「外国人ではない事を」三木武夫自民党代議士)

キューバではない」中曾根康弘自民党総務会長)

政治家も登場しています。この4人は全員、激烈な派閥争いのなかで70~80年代に首相経験者となりました。いち早く、この年「日本列島改造論」をブチ上げて首相となる田中角栄「法により厳正な処分を受けるべきである」と普通のコメント。三木武夫の見出しはどういうことだ!? と思ってしまいますが、犯人が外国のテロリストなどではなく、この日本社会で生み出された者たちなのだと痛感するべきだ、という主旨です。中曽根はチェ・ゲバラと比較し、南米などで起こっていた武装闘争という方法論をこの日本の社会に適用すること自体が夢想的で、主観主義の現れでしかないと批判しています。内容への賛否はともかく、いまの自民党政治家の頭脳では到底不可能そうなとこまで切り込んではいます。

 

毛沢東とは違う」市川誠(総評議長)

総評(日本労働組合総評議会)とは、今では顧みられることも少ないですが、1950〜1989年まで日本の労働組合ナショナルセンターとして強い存在感を持っていました。「学生をあそこまで追いこんでしまった政治を問題にしなければならない」としつつ、赤軍派毛沢東理論はほんとうの毛沢東理論とは違ったものである」と中国に擁護的に言及しているのが気になります。当時の日本における文化大革命の解釈についてはこれから調べたい課題のひとつ。

 

「極悪犯罪人である」石原慎太郎参議院議員

連合赤軍の行動は何も生みはしない。それに対して公害問題での市民の告発は、たとえば環境庁を作らせた」と言っています。前回の記事にも書いた通り、当時の公害問題に対する市民運動は着実な成果を上げていました。それに比べて連合赤軍は、という主旨ですが、お前が言うなって感じです。この数年後に石原慎太郎環境庁長官になりますが、水俣病の患者に暴言を浴びせて謝罪しています。

 

「親の過保護に責任」曽野綾子(作家)

「大学生の甘ったれ。これも親の子供に対する精神的保護の結果でしょうね」などなど。2010年代に老人や被災者に対する問題発言で話題になった作家ですが、基本的にこの頃からあまり変わってはいません。ここ20年ほどで自己責任論が普及したのも、それまでの社会で培われてきた通俗道徳(働かざるもの食うべからず的な)との相性の良さに起因していると考えているのですが、それをよく表しているとも思います。

 

「若者を甘やかすな」山口瞳(作家)

「だだっ子のような、単純で幼稚な行動では、人民を味方につけることはできませんよ」。こちらも「甘え」に原因を求めるパターン。『江分利満氏の優雅な生活』など、軽妙なエッセイで人気作家だった山口瞳。今でも古書店で気軽に手に入り、昭和の生活者のスタイルを知ることができます。

 

これらのコメントや他に掲載されている記事でも、「親の責任」にする論調は強めで、連合赤軍幹部の植垣康博の親にはインタビューも敢行。ちなみに弘前大学時代に植垣と交流のあった安彦良和はのちに「ガンダム」を生み出します。安彦良和による『革命とサブカル』という本で二人は再会して対話をしており、必読です。

 

「なにかむなしい」戸川昌子(作家)

「テレビを見ながらこれから、学生運動の低迷がはじまるんじゃないかしらと、なにかむなしさを感じましたね」この時点にして的確な指摘。戸川昌子はミステリ作家にしてシャンソン歌手。運営していた「青い部屋」は三島由紀夫川端康成も来ていたサロンで、渋谷に移ってからもクラブやシャンソンバーとして2010年まで続いており、学生時代とかよく行きました(友達がよく出てた)。かっこいい場所だった。

 

「ああイヤだ」遠藤周作(作家)

「今度の事件は、体制側にいろいろな法律を作らせる口実になる」『海と毒薬』、映画化もされた『沈黙』など、骨太でありながら広く読まれる作品を送り出していた遠藤周作。弾圧をもたらす結果しか生まないとして「反体制側の学生諸君は、このことを真剣に考えてほしい」と。「残った後釜のリーダーたちは(……)これからは数カ所で同時的に起こそうとするにちがいない」とも言っている。組織は違えど、それは半ば現実となったとはいえる。

 

「違うテレビと現実」三好徹(作家)

「千ミリの超望遠カメラで、八時間も十時間も映したところで、結局、それは真実ではないということです。あくまで、事実の断片でしかないんだし、彼らの起こした行動をどうこうという以前に、あのテレビ画面をすべて真実として報道をうのみにしてしまうことのほうがむしろ恐ろしいと感じましたね」すでにテレビが家庭に定着した時代でしたが、ひとつの事件が何時間も中継され続けていたのは初の出来事であり、そこに対する疑問を投げかける意見もあります。

 

「どうする狼少年」安岡章太郎(作家)

「えんえん十時間にわたるテレビの実況中継を一つのドラマとして見れば、まさに勧善懲悪、悪漢滅びて善人栄える大団円のごとくであるが、現実の事態は決してドラマのようにメデタシメデタシで終わるものではありえない」遠藤周作と同時期に活躍した「第三の新人」の安岡章太郎も、テレビでの報道に疑義を投げかけています。

 

連合赤軍と連合国民」真鍋博イラストレーター)

「大事件にしたのは報道軍団であった。テレビから女性週刊誌までの連合マスコミ軍である」星新一の装画でもよく知られるイラストレーター。マスコミや人々の狂騒を問題視しています。

 

「世論操作を警戒」羽仁進(映画監督)

「何が、この事件のまわりに異常な熱気を生んだのか、それを冷静に考え直す機会をつくる必要があると思います。自分では正義感と思いこんでいるものが他人によって作られているとしたら、怖ろしいことなのです」こちらも冷静な意見。寺山修司脚本の『初恋・地獄編』など、ATG系の映画を撮っていた監督。同時期に父の羽仁五郎が著した『都市の論理』はベストセラーになり、吉本隆明と並び学生運動におけるイデオローグでした。

 

「ユーモアが足りぬ」サトウ・サンペイ(漫画家)

「あの事件とは対照的に、中国では赤と青ほどに対立するニクソン周恩来が、昔からの知己のように親密に話し合っていた」それは日本人と違ってユーモアがあるからだ、と。「政治でも論理でもない、本当の意味のユーモア」ちょっとよく分からないし、米中国交に至った国際事情は色々原因あると思うのですが、「ユーモア」で社会現象を切るというのは現在ほとんど見かけないアプローチで、新鮮に感じます。『朝日新聞』に連載した「フジ三太郎」など、この時代に定着した中産階級サラリーマンの生活をユーモアを交えて描いた漫画家。

 

「こんな大事件に」金井美恵子(作家)

「どうせ、皆さん、連合赤軍を批難しているんでしょ。かといって、カッコいいなんていうのもどうかしてるし……困っちゃう。」さらっとしたコメントですが、その後書かれた数々の批評を読むにつけ、この時点で「さらっとしている」ことに過剰な意味を読み取ってしまいそうになります。

 

「世直しのきっかけ」若松孝二(映画監督)

「ぼくは彼ら“連合赤軍“を支持する」コメントは不要かと。その後に至るまでブレないスタンスを貫き通しているのが分かります。2008年には映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を残しています。

 

「根性に驚いた」梶原一騎(作家)

「あれはすごかった。もうテレビに釘づけになって、仕事も手につかず、ドギモを抜かれる思いで見ていた。最近の学生に、あんな根性のある連中がいたとは、これは大変なことだと思ってね……」巨人の星」「タイガーマスク」などの原作者。事件を「根性ベース」で捉えた斬新な意見です。この2年前の「よど号ハイジャック事件」において、赤軍派が「我々は『明日のジョー』である」と、自身の作品(高森朝雄名義)を引用しているので、その辺りも意識しているのかもしれません。

 

「赤は昔からいた」横井正一(グアム島生還)

残留日本兵としてグアム島で発見され、一躍有名になっていた横井庄一。発見されたのがこの年の1月24日で、帰国が2月2日なので、この時点で時事についてコメントをもらうというのはだいぶ無理があるのだが、「ああいう悪いヤツがいるんですね。昔も赤軍はあったが、今は多くなったように思います」と語っている。当然というべきか、戦前におけるソ連赤軍とごっちゃになっていて、「ホラ、あの北海道の樺太からソ連に渡った俳優さんがいるでしょう。あれが共産党赤軍ですわねえ」とも。これは1937年、松竹の俳優だった岡田嘉子と、演出家杉本良吉がソ連に密出国するという事件を指しています。恋の逃避行として当時世間でも話題となったのが伺えます。

 

こうやって並べてみると、現代において何か大事件が起きたときの「コメント」に見られる要素が、この時点で出揃っていると感じます。テレビを通じて視聴者が事件を知り、あれこれと解釈するときのパターンの数々。異なるのは、昨今ではSNSがあるので、それらの解釈を無数の人々が提示してその中でも議論が沸き起こると言う点でしょう。梶原一騎の意見などは即座に炎上してしまいそうです。もっとも、梶原一騎だったら炎上しても全然気にしなさそうですが。

そしてやはりポイントとなるのは、これらのコメントがリンチ事件発覚前であるという点です。基本的には、殉職者が出てしまったのは無念だが、人質は無事で本当に良かった、彼らの行為自体に対しては、心情的には理解できるというトーンが多めなのが印象的です。しかしこの後に衝撃が走ったのは言うまでもなく、かつ、日本赤軍によるさまざまなテロ、東アジア反日武装戦線による爆弾闘争、そして各大学で繰り広げられる内ゲバ、など、学生運動自体が極めて危険で、公共の敵として忌避されるようになっていくのが一般的な状況ではありました。2022年の現在にあっては、その後の時代を生きた人たちが社会の中心となっており、記憶も風化していくばかりかと思われます。しかし、風化した後の時代の人々も同じような轍を踏んでいないか、繰り返していないか確認するためにも、過去の出来事にアクセスする意義はあると、僕は考えています。

 

 

 

 

 

コロナ禍に関する現状についての雑感

コロナウイルスについては不確定な要素が多すぎて専門家にお任せしたいという気持ちでいるのだが、やはりここまで長引いていると自分の心理的にいろいろと食らってしまうものもあり、素人考えながら雑感を記しておきたくなった。

 

こと日本において、今後の見通しが立っているようにはどうにも思えないのだけど、とくに気になっているのは、私権の制限について。このままのペースで感染者が増加したら、社会にかなり綻びが出てしまうと思う、という言い方だと曖昧だろうか。つまり感染したらお休みをしないといけないので、お店も休むし、会社にも行けない。そのパターンが増えているのは近所を歩いているだけでも分かる。かつ、もう1年半もさまざまな行動に対する緊張を強いられている。とにかく、そこについて政府はどう考えているのかがよく分からない。現状を見ると、一時的に社会機能を停止させるよりも、ほぼゆるゆるの状態のまま放っておいてワクチン一点突破で進めるという判断なのかなと思うけど、ということはそっちのほうが支障がないという試算があるのだろうか。ひと口に試算といっても、社会のなかには心理的な変化が及ぼす影響もあるし、何より生命じたいが問われているという状況なわけで、そこも含めて考えないといけないだろう。

 

政府にはせめてそのグランドデザインだけでも明らかにしてほしいのだけど、なぜ不透明なままにしているのか。ほとんどが不透明であるとは、言い換えると私たちはほとんど自由にされているということでもある。なぜか飲酒とその周辺にはやたらと厳しい措置が取られているが、それ以外の経済活動、生活についてはとりあえずのモラルを押し付けるくらいに留まっており、野放しにされているのでみんな自由に判断している。

 

自由に判断しているとは判断がそれぞれの人々に任されている(自己責任になっている)ということでもある。道筋すらあまり提示されていないので、自治体は自治体で、国民は国民でなんとか判断しながら堪えている。自由であるがゆえに、衝突も数知れず、日々論争が起こっている。フジロックフェスティバルにまつわる一連の流れを見ていてしんどいなあと思ったのは、全員がそれぞれに個人にとって、身の回りにとって最善な策をと判断しているのだが見解の違いによって引き裂かれてしまっているところだ。しかし、元を辿れば、上記したように自由にやってくれという国のメタ・メッセージ(とでも言えばよいか)があるからこうなっているだけであって、有り体に言ってしまえば本件に関しては誰も悪くはなく、悪いとすればそのように争うような結果を生み出している政府のみと考えた方がよいと思っている。コレ悪いだろという意見を一手に引き受けるために政府は存在しているし、そのために大きな権力を持っていると考えた方がよい。

 

※加えて言えば、政府のような権力を持っていない市井の人に対しても同じような力と気合いでパンチを喰らわせてしまったりするのはそれはそれで問題があるのだ。これはほかのさまざまな事象にも言えるのだけど、いまは、権力構造の認識、権力の「強さ」に対する認識がかなりボヤけた時代になっていて、これについては改めて書きたいところ。

 

いずれにしろ、去年イタリアのコロナ対策を受けて「例外状態」を作り出す世界を告発した(そして炎上した)ジョルジョ・アガンベンは、その逆をひた走るような日本政府の対応をどう見るのかななどと考えたりもした。

 

※最近聞かれなくなってはいるけれど「自粛警察」など、町内会の相互監視システムを応用しているという点では、かつての戦時に倣った日本流の「例外状態」なのかもしれないけれど。

 

そんなこんなだが、SNSを抜け出して年表に没頭しているのとひたすら調べ物をしている昨今である(どうにかこうにか、いろいろと準備しています。。)。しかしたまには気分転換したいものです。結論はそれに尽きる。

SNS言説の背景を考えるために

日本において「終戦」と認識されている日に、ターリバーンがカブールを陥落させたというニュースが入ってくるのは、なんとも妙な気分である。いやもちろんそれぞれは別々の事象であることを強調したうえではあるのだが。太平洋戦争の「終戦」が、レコード盤に記録された「終戦詔勅」が放送された8.15に規定するか否かという議論はずっと続いており、降伏文書が調印された9.2ではないかとか、さまざまな説があるのも理解はしているつもりだ。米艦隊が相模湾に入泊したのは8.27で、連合国軍の先遣隊が厚木に到着したのは8.28だ。

 

故・中村哲医師がターリバーンについてある程度肯定的に語ったインタビューをwebで読むことができる。その紹介ツイートに対して、いやターリバーンは悪だという反論リプライが大勢来ているのを見るにつけ、その是非はともかく、ひとつの感慨がある。というのも、自分が高校〜大学生だった頃はちょうど同時多発テロからアフガニスタン空爆イラク戦争の時期にあたり、当時の「対テロ戦争」というイデオロギーに対する議論はあちこちで巻き起こっていたと記憶しているが、少なくとも2021年のSNSでそれらはあまり受け継がれておらず、多くの人々は21世紀初頭にアメリカが打ち出した「対テロ戦争」レジームの延長上で考えているように見える。

 

日本人の持つ「ターリバーン観」しかり、日々議論の応酬が続くSNSの背景には、ここ数十年単位でのイデオロギー的な規定があり、そのパースペクティヴを認識する必要性について考えている。以前「ことばへの犯罪」という文章を書いたときにも意識していたのだが、DaiGoにまつわる議論もまた、この大きなイデオロギーの範囲内で思考せざるを得ない状況のなかにあるのではないか。すでにいくつかの指摘がなされているが、「権利は義務と引き換えにある」的、合理性重視な思考が人々のなかに深く内在していて、DaiGoの発言はもとより、彼に対する反論のなかにも散見されるのがどうにも気になる。

 

矢野利裕氏による所感は、そういった状況自体を教育現場から「実践的」に捉えていて読み応えのある記事で、とてもおすすめである(ちなみに『ことばへの犯罪』で取り上げたのも、1992年時点の教育現場からの論考だった)。このように整理する作業がいまは重要だと考えている。

 

それはなぜか。ここ数年におけるSNS言説の数々は、整理とは無縁で、モノローグ的に繰り出され、アテンションを生み出す機能に特化したものばかりになっているからだ。念のためここで注意深く補足しておくと、モノローグそのものの問題というより、それが政治的に機能したときに、背景にあるイデオロギー的な規定がぼかされがちで、曖昧なまま展開・拡散していく議論自体への疑問がある、と言いたいのだ。僕が昔の話をやたらとしつこくするのは、その仕組みから抜け出して考えたいという意思があるからなのだが、まあまどろっこしく見えるだろう。しかし、まどろっこしくしなければならないとも思っているのだ。

年表で見る! かつての東京オリンピック

1938年7月、日中戦争の影響により、1940年東京オリンピックが中止になった。

それから83年後の夏、コロナウィルスが拡大するなか2020年東京オリンピックが開催され、この記事がアップされるころに閉幕しようとしている。

さまざまな議論を読んだ今回のオリンピックだったが、本記事ではそれらにはほぼ触れず、1940年と1964年、2回存在したオリンピックについて、当時の年表を参照しつつ紹介したい。

 

1940年は皇紀二千六百年だった

NHKドラマ「いだてん」でも取り上げられた1940年東京オリンピック。ドラマでは、進行する戦争の気配と、それに翻弄される関係者の様子が生き生きと描き出されている。物語を楽しみつつ、改めて当時の歴史を調べてみると、1940年は「皇紀二千六百年」つまり神武天皇即位2600年を祝うモードにあったことが分かる。東京オリンピックもその祝賀行事の一貫で、さらに、同年には札幌オリンピック万国博覧会も予定されていて盛り沢山だったのだが、それらはすべて、日中戦争の影響で中止となった。しかし、皇紀二千六百年の祝賀行事は、1940年11月に開催されている。その直前の出来事を見てみる。

 

1940年8月:東京市内に「ぜいたくは敵だ」の立て看板設置

1940年9月23日:日本軍、北部仏領インドシナに武力進駐開始

1940年9月27日:日独伊三国同盟締結

1940年10月12日:大政翼賛会結成(総裁=近衛文麿

1940年10月31日:東京のダンスホールが閉鎖:最終日は満員に

1940年11月10日:紀元二千六百年祝典

 

5日間にわたる祭典で、娯楽が制限されるなか、この日ばかりは昼酒も許されたという。終了後は「祝ひ終った、さあ働かう」と戦時体制に戻った。

この祭典の目的は、国民の間に建国神話を再確認させることにあった。それは押しつけというよりは、百貨店での催事や観光産業によって、「娯楽」として提供された、消費文化のひとつの形でもあった。いまも東京都中央区にある勝鬨橋は同年6月14日に完成、開催されなかった「万国博覧会」予定地の月島にアクセスするためという目論見もあった。

 

1936年ベルリン・オリンピックの影響

1940年東京オリンピックの前には、1936年ベルリン・オリンピックが開催されている。前畑秀子の活躍と「前畑ガンバレ」というアナウンサーの掛け声、ナチスによるテクノロジーを駆使したメディア・イベントに圧倒される様子は「いだてん」にも描かれていた。日本も自国の技術力を世界に誇示しようと試み、この頃テレビジョンの開発が開始されていた。新聞も「少くとも東京市内、うまく行けば全国の各家庭へ」などと報じていたという。その期待が実現したのは戦後、「テレビの時代」が始まって以降になる。ちなみに、いまではオリンピックの定番になっている聖火リレーが始まったのも、ベルリン・オリンピックからだ。日本もこれに倣い行う計画を立てたが、これも1936年10月に発表された当初は「紀元二千六百年」を強く意識したものだった。上海から門司に入り、九州の高千穂峰で「二千六百年」を奉賀、伊勢神宮明治神宮から会場へというコースだった。

 

1964年オリンピックに対する文化人の反応

さて、戦前に実施できなかったオリンピックは、戦後、1964年10月10日に実現することになる。そのいきさつについては「いだてん」に譲るとして、開催直前の日本の出来事を、これまた年表形式で見ていきたい。すでに知られる通り、高度経済成長のさなか、いまの日常に至る萌芽を随所に見ることができる。

 

1964年8月4日 トンキン湾事件:米軍機、北ベトナムを爆撃

1964年8月6日 東京で水不足、給水制限実施

1964年9月6日 王貞治、年間53本塁打日本記録樹立 →09/23 55本達成

1964年9月9日 池田首相、国立がんセンター付属病院に入院

1964年9月12日 東京・築地署、銀座の「みゆき族」を補導

1964年9月17日 東京モノレール開業:浜松町ー羽田空港

1964年10月1日 東海道新幹線開業:東京ー新大阪間が4時間に

1964年10月3日 日本武道館が開館

 

トンキン湾事件ベトナム戦争の火蓋が切られるなか、東京の夏は水不足で、「東京砂漠」と呼ばれていた。アイビー・ルックに身を包んだ「みゆき族」は、戦後日本のストリート/族・カルチャーに位置する。しかし、浄化作戦のなかで一掃された。オリンピックの名の下に、建築物も含む東京の街自体が大幅に改変されていった時期だ。もてなす交通機関もかなり直前に整備されている。

市川崑による記録映画『東京オリンピック』を見ると、沖縄から広島を経て東京に入る聖火の様子が映し出されている。2021年のように広告をベタベタと載せたトラックなどはなく、聖火ランナーとそのあとをついてくる幾人かのランナーと警官隊というシンプルなものだ。

 

そんななか、当時の文化人たちはどう反応していたのか。『1964年の東京オリンピック』(2014、河出書房新社)に当時の記録がまとまっている。それを読むと、9月の時点で松本清張はずいぶんウンザリしている。「こんど、東京にオリンピックがはじまってもなんの感興もない。ただ、うるさいというだけである。何かの理由で、東京オリンピックが中止になったら、さぞ快いだろうなと思うくらいである。」小田実も批判している。(懸命なアスリートもいれば、昼寝でもしてたいという人もいるのを認めたうえで)「オリンピックとなると、そうもいかなくなるらしい。そういかなくさせるのが「政治」だろう。「政治」は後者のヒルネ組をまるで「非国民」扱いをする。ヒルネ組の住まうところをないがしろにする。」

 

いっぽう、三島由紀夫はオリンピックを大絶賛している。豊かな表現で開会式やアスリートの様子を描写していて、ハマりまくっているさまが伝わる。ナショナリズムの傾向を見せる少し前の三島の姿だ。三島と司馬遼太郎大宅壮一の鼎談も興味深い。中国の核実験など(これによって共産党内での論争が起こったのもこの頃)当時の時事ネタを絡めて話しているのだが、司馬が「ぼくは世界は産業技術で分けられるべきだと思っています」と言っており、まるで21世紀のグローバル世界を予測しているかのよう。

 

当時のアートとオリンピック

開会式で、黛敏郎電子音楽「カンパノロジー・オリンピカ」が流れたのも、当時の人々の印象に残ったようだ。お茶の間に電子音楽が流れた初期の出来事だ。三島はオリンピックの楽しい雰囲気のなかで「じつに不似合なものだった」と厳しい。かたや大江健三郎「梵鐘を基調にして電子音の効果をくわえた音楽、それはなんとなく人を喰った陽気なところのある、そしてまた梵鐘らしく陰陰滅滅としたところもある、おかしな電子音楽だ。それは微笑をさそう。」と、じつに楽しんでいる。

 

Soundcloudでその音源(1970年Ver.)を試聴することができる。エレクトロニカを聴き慣れた現代の耳でも、聴き応えがあるはず。今年7月に塩谷宏『音の始原(はじまり)を求めて<2021版>』が発売されており、そちらに収録。

Stream Olympic Campanology (Admission)_Toshiro Mayuzumi by The Beginnings of Japanese Electroacoustic | Listen online for free on SoundCloud

 

 

オリンピックに触発されたアーティストの動きとして有名なのは、開催中の10月16日に実施されたハイレッド・センターの「首都圏清掃整理促進運動」だ。都内の整備が進むなか、突然路上を念入りに掃除しだすというパフォーマンスについて、メンバーのひとり、赤瀬川原平の回想では、白衣を着ていると「オオヤケ」の雰囲気が出て、交通を妨害するようなパフォーマンスでも市民は従ってくれたと記している。意図せず権力構造が露出するような作品となったのだった。

この回想が記された『東京ミキサー計画』の巻末には、当時の詳細な年表がつけられているのだが、それを見ると、1964年10月に「東京NO-OLYMPIC大会」というイベントも行われていたらしい。土方巽松田政男が「芸術」を競い合うという内容だったらしいが、それ以上の詳細は分からない。

 

21世紀のオリンピック

1964年9月1日付『朝日新聞』に掲載された、星新一「オリンピック二〇六四」という短編がある。2064年の時点ではオリンピックは毎年開催されており、開催地まではロケット機ですぐ着くので選手も観客も自宅から出かけてくる。医学的装置によって選手は体力もメンタルも最高のコンディションに仕上げられる。しかし、表彰やら国旗掲揚などはすべて古式にのっとっている……といったSFだ。

勝ち負けなどをめぐってオリンピックのなかでは観客同士のごたごたも起こる。そんな不穏な状況を察知したら、鎮静作用をもたらすガスが客席に満ちて、さわぎはおさまる。

これらは荒唐無稽に見えるだろうか?  どうもそうも思えないなと考えてしまう昨今である。

 

<参考文献>

映像の20世紀、映像の21世紀

深夜にテレビをつけたら「映像の世紀」が再放送されていたので、急にどうしたNHK、と思いながら見入ってしまった。加古隆による、ででででーん、というテーマソングも好きだ。サブスクにもあるので、出勤時にかけながら歩くと壮大な気分になれる。

 

この番組は90年代に製作されたものだが、それからわりと月日が経って、21世紀前半になったいま自分は再放送を見ているということになる。この時間を、「映像の世紀」でも取り上げられる19世紀末〜20世紀に重ね合わせるならば、ボーア戦争をやってたころに製作されたものを、日露戦争もバルカン戦争も第一次世界大戦ロシア革命もスペイン・インフルエンザも通過したあとの1921年に体験している、みたいなことになる。なんて比べてみると、あの頃のような世界戦争こそ起こっていないし、自分の身体こそ何十年間も無事なものの、それに匹敵するような激動を経験しているのかもという気がしてきた。少なくとも、いま電車のシートに座ってちっこい板みたいな物体に向かって懸命に文字を打っているという風景は、1990年代には存在していなかった。

 

21世紀前半に生きる自分の視点で改めて見ると、それまであまり意識していなかった部分に気づかされた。1900〜1910年代くらい、映像メディアが登場したばかりの頃の出来事が、妙にいまに近いような気がしてくるのだ。19世紀末に出現した「映像」は「映画」となり、やがて映画監督が生まれ、作家性を帯びることになる。つまり記名性が生まれる。しかし、誕生当初はなんか珍しくて面白い最先端のメディアで、いまでは誰も知らない、記名されていない人々がとにかくいろいろ撮りまくっていたのだった。観客もどんどん過激な表現を求めるようになるので、とくに作家性もないけどみんなを楽しませるために作られた奇妙な映像がたくさん生まれた。

 

デカいマントに身を包んだ男が、エッフェル塔から飛んでみると豪語し、周りも盛り上がってしまって引くに引けなくなってしまい、えいっとばかり飛ぶのだが、無論飛べるはずもなく墜落、即死してしまうという辛い映像が記録されていた。しかし全然過去の出来事のように思えないのは、このように人目を引きたい人間がいまもいるのが、日々インターネットを見ていると如実に分かるからだ。また、1905年ロシアの血の日曜日事件の模様がやたらと鮮明に記録されていて、こんな映像あったのか!と思ったら、のちに誰かによる仕込みで作られた映像で、おそらくソ連時代に入ってからのプロパガンダであると言われている、とナレーションが入っていて驚いた。フェイク映像だ。記名性がなく、正体不明の映像が溢れているという状況は、むしろこの番組が作られた1990年代より、現代のほうに親和性がある。

 

「ことばへの犯罪」とは

つい先日、芹沢俊介・編著『少年犯罪論』(青弓社)という本を読んでいた。1992年に刊行された、複数の論者による、当時の少年犯罪から日常での振る舞いに至る「子ども」たちの様相についての論考が集まっている。そのなかにある向井吉人という方の「ことばへの犯罪」という文章を興味深く読んだ。小学校の教員という立場から、最近(つまり、1990年代前半)の子どもたちの変化について述べている。当時の小学生とは、すなわち自分(1984年生まれ)である。つまり、教員から「自分たち」はこう見えていたのかという発見を呼び起こすような論考だった。

 

「ことばへの犯罪」というのは奇妙なタイトルだが、その前に、当時の子どもたちが教室内でのやりとりで、それまでと異なった言葉の使い方をしているとして、何点かの要素を挙げているのだが、以下の点が気になった。引用すると、

 

「きわめて教育的な姿勢をうかがわせる言動で、教員や友だちに接することがある。特に、ささいな失敗や、教員らしさを逸脱した言動に対して厳しい」

 

というものだ。これはなんとなく自分にも覚えがある。イヤな子どもだったのがバレてしまうのであまり書きたくないのだけど、黒板に誤字が書かれたのを見ると、得意げに指摘するような小学生パンスだったのを思い出す(そんなもんだからいじめられたりもしたが、いまは仕事で誤字を見つけたり、自分で誤字をやってしまったりするので人生というのは不思議だと思う)。これは自分自身の例だけど、本文中にあるのは、教えていると「こんなことなんの役に立つの」とか、早めに授業を切り上げると「ちゃんと時間を守ってください」と言われたりしたという。たしかに、このような言葉も飛び交っていたような気がする。

 

さて、そんななかにおける「ことばへの犯罪」とは何か。ここがわりと複雑で掴みづらいのだけど、要約するならば、学校や教室というシステムに対して介入する言葉ということになる。さきほどの「失敗に厳しく」介入するのも然り。また、「ことば遊び」的な表現、つまり話芸的なコミュニケーションも「犯罪」たりえるとしている。当時放映されていた人気番組「平成教育委員会」が例に挙げられているが、出演者のキャラクターに合わせた「誤答」がおもしろさを生み出すような状態を、子どもたちも楽しんでいると言う。これもまた当時の記憶に照らし合わせて納得できる。

 

ここで思うのは、その後インターネットが出現して2000年代には全面化したコミュニケーションのあり方だ。自分もその頃ははてなで拙いブログを書いたりしていた(いまも書いてる)。ということは、当時の子どもたちが成長してインターネットでのコミュニケーションを作り出していたんだよなと強く実感するのだった。もちろん草創期より自分たちより上の世代の方がたくさんいらっしゃったけれど、90年代の小学生による教室空間に「逸脱した行動に対して厳しい言葉」と「ことば遊び」が両立した、両義的な状態があったとすれば、それはたしかに現在のインターネットにも移行しているよなと考えたりしたのだった。