コロナ禍に関する現状についての雑感

コロナウイルスについては不確定な要素が多すぎて専門家にお任せしたいという気持ちでいるのだが、やはりここまで長引いていると自分の心理的にいろいろと食らってしまうものもあり、素人考えながら雑感を記しておきたくなった。

 

こと日本において、今後の見通しが立っているようにはどうにも思えないのだけど、とくに気になっているのは、私権の制限について。このままのペースで感染者が増加したら、社会にかなり綻びが出てしまうと思う、という言い方だと曖昧だろうか。つまり感染したらお休みをしないといけないので、お店も休むし、会社にも行けない。そのパターンが増えているのは近所を歩いているだけでも分かる。かつ、もう1年半もさまざまな行動に対する緊張を強いられている。とにかく、そこについて政府はどう考えているのかがよく分からない。現状を見ると、一時的に社会機能を停止させるよりも、ほぼゆるゆるの状態のまま放っておいてワクチン一点突破で進めるという判断なのかなと思うけど、ということはそっちのほうが支障がないという試算があるのだろうか。ひと口に試算といっても、社会のなかには心理的な変化が及ぼす影響もあるし、何より生命じたいが問われているという状況なわけで、そこも含めて考えないといけないだろう。

 

政府にはせめてそのグランドデザインだけでも明らかにしてほしいのだけど、なぜ不透明なままにしているのか。ほとんどが不透明であるとは、言い換えると私たちはほとんど自由にされているということでもある。なぜか飲酒とその周辺にはやたらと厳しい措置が取られているが、それ以外の経済活動、生活についてはとりあえずのモラルを押し付けるくらいに留まっており、野放しにされているのでみんな自由に判断している。

 

自由に判断しているとは判断がそれぞれの人々に任されている(自己責任になっている)ということでもある。道筋すらあまり提示されていないので、自治体は自治体で、国民は国民でなんとか判断しながら堪えている。自由であるがゆえに、衝突も数知れず、日々論争が起こっている。フジロックフェスティバルにまつわる一連の流れを見ていてしんどいなあと思ったのは、全員がそれぞれに個人にとって、身の回りにとって最善な策をと判断しているのだが見解の違いによって引き裂かれてしまっているところだ。しかし、元を辿れば、上記したように自由にやってくれという国のメタ・メッセージ(とでも言えばよいか)があるからこうなっているだけであって、有り体に言ってしまえば本件に関しては誰も悪くはなく、悪いとすればそのように争うような結果を生み出している政府のみと考えた方がよいと思っている。コレ悪いだろという意見を一手に引き受けるために政府は存在しているし、そのために大きな権力を持っていると考えた方がよい。

 

※加えて言えば、政府のような権力を持っていない市井の人に対しても同じような力と気合いでパンチを喰らわせてしまったりするのはそれはそれで問題があるのだ。これはほかのさまざまな事象にも言えるのだけど、いまは、権力構造の認識、権力の「強さ」に対する認識がかなりボヤけた時代になっていて、これについては改めて書きたいところ。

 

いずれにしろ、去年イタリアのコロナ対策を受けて「例外状態」を作り出す世界を告発した(そして炎上した)ジョルジョ・アガンベンは、その逆をひた走るような日本政府の対応をどう見るのかななどと考えたりもした。

 

※最近聞かれなくなってはいるけれど「自粛警察」など、町内会の相互監視システムを応用しているという点では、かつての戦時に倣った日本流の「例外状態」なのかもしれないけれど。

 

そんなこんなだが、SNSを抜け出して年表に没頭しているのとひたすら調べ物をしている昨今である(どうにかこうにか、いろいろと準備しています。。)。しかしたまには気分転換したいものです。結論はそれに尽きる。

SNS言説の背景を考えるために

日本において「終戦」と認識されている日に、ターリバーンがカブールを陥落させたというニュースが入ってくるのは、なんとも妙な気分である。いやもちろんそれぞれは別々の事象であることを強調したうえではあるのだが。太平洋戦争の「終戦」が、レコード盤に記録された「終戦詔勅」が放送された8.15に規定するか否かという議論はずっと続いており、降伏文書が調印された9.2ではないかとか、さまざまな説があるのも理解はしているつもりだ。米艦隊が相模湾に入泊したのは8.27で、連合国軍の先遣隊が厚木に到着したのは8.28だ。

 

故・中村哲医師がターリバーンについてある程度肯定的に語ったインタビューをwebで読むことができる。その紹介ツイートに対して、いやターリバーンは悪だという反論リプライが大勢来ているのを見るにつけ、その是非はともかく、ひとつの感慨がある。というのも、自分が高校〜大学生だった頃はちょうど同時多発テロからアフガニスタン空爆イラク戦争の時期にあたり、当時の「対テロ戦争」というイデオロギーに対する議論はあちこちで巻き起こっていたと記憶しているが、少なくとも2021年のSNSでそれらはあまり受け継がれておらず、多くの人々は21世紀初頭にアメリカが打ち出した「対テロ戦争」レジームの延長上で考えているように見える。

 

日本人の持つ「ターリバーン観」しかり、日々議論の応酬が続くSNSの背景には、ここ数十年単位でのイデオロギー的な規定があり、そのパースペクティヴを認識する必要性について考えている。以前「ことばへの犯罪」という文章を書いたときにも意識していたのだが、DaiGoにまつわる議論もまた、この大きなイデオロギーの範囲内で思考せざるを得ない状況のなかにあるのではないか。すでにいくつかの指摘がなされているが、「権利は義務と引き換えにある」的、合理性重視な思考が人々のなかに深く内在していて、DaiGoの発言はもとより、彼に対する反論のなかにも散見されるのがどうにも気になる。

 

矢野利裕氏による所感は、そういった状況自体を教育現場から「実践的」に捉えていて読み応えのある記事で、とてもおすすめである(ちなみに『ことばへの犯罪』で取り上げたのも、1992年時点の教育現場からの論考だった)。このように整理する作業がいまは重要だと考えている。

 

それはなぜか。ここ数年におけるSNS言説の数々は、整理とは無縁で、モノローグ的に繰り出され、アテンションを生み出す機能に特化したものばかりになっているからだ。念のためここで注意深く補足しておくと、モノローグそのものの問題というより、それが政治的に機能したときに、背景にあるイデオロギー的な規定がぼかされがちで、曖昧なまま展開・拡散していく議論自体への疑問がある、と言いたいのだ。僕が昔の話をやたらとしつこくするのは、その仕組みから抜け出して考えたいという意思があるからなのだが、まあまどろっこしく見えるだろう。しかし、まどろっこしくしなければならないとも思っているのだ。

年表で見る! かつての東京オリンピック

1938年7月、日中戦争の影響により、1940年東京オリンピックが中止になった。

それから83年後の夏、コロナウィルスが拡大するなか2020年東京オリンピックが開催され、この記事がアップされるころに閉幕しようとしている。

さまざまな議論を読んだ今回のオリンピックだったが、本記事ではそれらにはほぼ触れず、1940年と1964年、2回存在したオリンピックについて、当時の年表を参照しつつ紹介したい。

 

1940年は皇紀二千六百年だった

NHKドラマ「いだてん」でも取り上げられた1940年東京オリンピック。ドラマでは、進行する戦争の気配と、それに翻弄される関係者の様子が生き生きと描き出されている。物語を楽しみつつ、改めて当時の歴史を調べてみると、1940年は「皇紀二千六百年」つまり神武天皇即位2600年を祝うモードにあったことが分かる。東京オリンピックもその祝賀行事の一貫で、さらに、同年には札幌オリンピック万国博覧会も予定されていて盛り沢山だったのだが、それらはすべて、日中戦争の影響で中止となった。しかし、皇紀二千六百年の祝賀行事は、1940年11月に開催されている。その直前の出来事を見てみる。

 

1940年8月:東京市内に「ぜいたくは敵だ」の立て看板設置

1940年9月23日:日本軍、北部仏領インドシナに武力進駐開始

1940年9月27日:日独伊三国同盟締結

1940年10月12日:大政翼賛会結成(総裁=近衛文麿

1940年10月31日:東京のダンスホールが閉鎖:最終日は満員に

1940年11月10日:紀元二千六百年祝典

 

5日間にわたる祭典で、娯楽が制限されるなか、この日ばかりは昼酒も許されたという。終了後は「祝ひ終った、さあ働かう」と戦時体制に戻った。

この祭典の目的は、国民の間に建国神話を再確認させることにあった。それは押しつけというよりは、百貨店での催事や観光産業によって、「娯楽」として提供された、消費文化のひとつの形でもあった。いまも東京都中央区にある勝鬨橋は同年6月14日に完成、開催されなかった「万国博覧会」予定地の月島にアクセスするためという目論見もあった。

 

1936年ベルリン・オリンピックの影響

1940年東京オリンピックの前には、1936年ベルリン・オリンピックが開催されている。前畑秀子の活躍と「前畑ガンバレ」というアナウンサーの掛け声、ナチスによるテクノロジーを駆使したメディア・イベントに圧倒される様子は「いだてん」にも描かれていた。日本も自国の技術力を世界に誇示しようと試み、この頃テレビジョンの開発が開始されていた。新聞も「少くとも東京市内、うまく行けば全国の各家庭へ」などと報じていたという。その期待が実現したのは戦後、「テレビの時代」が始まって以降になる。ちなみに、いまではオリンピックの定番になっている聖火リレーが始まったのも、ベルリン・オリンピックからだ。日本もこれに倣い行う計画を立てたが、これも1936年10月に発表された当初は「紀元二千六百年」を強く意識したものだった。上海から門司に入り、九州の高千穂峰で「二千六百年」を奉賀、伊勢神宮明治神宮から会場へというコースだった。

 

1964年オリンピックに対する文化人の反応

さて、戦前に実施できなかったオリンピックは、戦後、1964年10月10日に実現することになる。そのいきさつについては「いだてん」に譲るとして、開催直前の日本の出来事を、これまた年表形式で見ていきたい。すでに知られる通り、高度経済成長のさなか、いまの日常に至る萌芽を随所に見ることができる。

 

1964年8月4日 トンキン湾事件:米軍機、北ベトナムを爆撃

1964年8月6日 東京で水不足、給水制限実施

1964年9月6日 王貞治、年間53本塁打日本記録樹立 →09/23 55本達成

1964年9月9日 池田首相、国立がんセンター付属病院に入院

1964年9月12日 東京・築地署、銀座の「みゆき族」を補導

1964年9月17日 東京モノレール開業:浜松町ー羽田空港

1964年10月1日 東海道新幹線開業:東京ー新大阪間が4時間に

1964年10月3日 日本武道館が開館

 

トンキン湾事件ベトナム戦争の火蓋が切られるなか、東京の夏は水不足で、「東京砂漠」と呼ばれていた。アイビー・ルックに身を包んだ「みゆき族」は、戦後日本のストリート/族・カルチャーに位置する。しかし、浄化作戦のなかで一掃された。オリンピックの名の下に、建築物も含む東京の街自体が大幅に改変されていった時期だ。もてなす交通機関もかなり直前に整備されている。

市川崑による記録映画『東京オリンピック』を見ると、沖縄から広島を経て東京に入る聖火の様子が映し出されている。2021年のように広告をベタベタと載せたトラックなどはなく、聖火ランナーとそのあとをついてくる幾人かのランナーと警官隊というシンプルなものだ。

 

そんななか、当時の文化人たちはどう反応していたのか。『1964年の東京オリンピック』(2014、河出書房新社)に当時の記録がまとまっている。それを読むと、9月の時点で松本清張はずいぶんウンザリしている。「こんど、東京にオリンピックがはじまってもなんの感興もない。ただ、うるさいというだけである。何かの理由で、東京オリンピックが中止になったら、さぞ快いだろうなと思うくらいである。」小田実も批判している。(懸命なアスリートもいれば、昼寝でもしてたいという人もいるのを認めたうえで)「オリンピックとなると、そうもいかなくなるらしい。そういかなくさせるのが「政治」だろう。「政治」は後者のヒルネ組をまるで「非国民」扱いをする。ヒルネ組の住まうところをないがしろにする。」

 

いっぽう、三島由紀夫はオリンピックを大絶賛している。豊かな表現で開会式やアスリートの様子を描写していて、ハマりまくっているさまが伝わる。ナショナリズムの傾向を見せる少し前の三島の姿だ。三島と司馬遼太郎大宅壮一の鼎談も興味深い。中国の核実験など(これによって共産党内での論争が起こったのもこの頃)当時の時事ネタを絡めて話しているのだが、司馬が「ぼくは世界は産業技術で分けられるべきだと思っています」と言っており、まるで21世紀のグローバル世界を予測しているかのよう。

 

当時のアートとオリンピック

開会式で、黛敏郎電子音楽「カンパノロジー・オリンピカ」が流れたのも、当時の人々の印象に残ったようだ。お茶の間に電子音楽が流れた初期の出来事だ。三島はオリンピックの楽しい雰囲気のなかで「じつに不似合なものだった」と厳しい。かたや大江健三郎「梵鐘を基調にして電子音の効果をくわえた音楽、それはなんとなく人を喰った陽気なところのある、そしてまた梵鐘らしく陰陰滅滅としたところもある、おかしな電子音楽だ。それは微笑をさそう。」と、じつに楽しんでいる。

 

Soundcloudでその音源(1970年Ver.)を試聴することができる。エレクトロニカを聴き慣れた現代の耳でも、聴き応えがあるはず。今年7月に塩谷宏『音の始原(はじまり)を求めて<2021版>』が発売されており、そちらに収録。

Stream Olympic Campanology (Admission)_Toshiro Mayuzumi by The Beginnings of Japanese Electroacoustic | Listen online for free on SoundCloud

 

 

オリンピックに触発されたアーティストの動きとして有名なのは、開催中の10月16日に実施されたハイレッド・センターの「首都圏清掃整理促進運動」だ。都内の整備が進むなか、突然路上を念入りに掃除しだすというパフォーマンスについて、メンバーのひとり、赤瀬川原平の回想では、白衣を着ていると「オオヤケ」の雰囲気が出て、交通を妨害するようなパフォーマンスでも市民は従ってくれたと記している。意図せず権力構造が露出するような作品となったのだった。

この回想が記された『東京ミキサー計画』の巻末には、当時の詳細な年表がつけられているのだが、それを見ると、1964年10月に「東京NO-OLYMPIC大会」というイベントも行われていたらしい。土方巽松田政男が「芸術」を競い合うという内容だったらしいが、それ以上の詳細は分からない。

 

21世紀のオリンピック

1964年9月1日付『朝日新聞』に掲載された、星新一「オリンピック二〇六四」という短編がある。2064年の時点ではオリンピックは毎年開催されており、開催地まではロケット機ですぐ着くので選手も観客も自宅から出かけてくる。医学的装置によって選手は体力もメンタルも最高のコンディションに仕上げられる。しかし、表彰やら国旗掲揚などはすべて古式にのっとっている……といったSFだ。

勝ち負けなどをめぐってオリンピックのなかでは観客同士のごたごたも起こる。そんな不穏な状況を察知したら、鎮静作用をもたらすガスが客席に満ちて、さわぎはおさまる。

これらは荒唐無稽に見えるだろうか?  どうもそうも思えないなと考えてしまう昨今である。

 

<参考文献>

映像の20世紀、映像の21世紀

深夜にテレビをつけたら「映像の世紀」が再放送されていたので、急にどうしたNHK、と思いながら見入ってしまった。加古隆による、ででででーん、というテーマソングも好きだ。サブスクにもあるので、出勤時にかけながら歩くと壮大な気分になれる。

 

この番組は90年代に製作されたものだが、それからわりと月日が経って、21世紀前半になったいま自分は再放送を見ているということになる。この時間を、「映像の世紀」でも取り上げられる19世紀末〜20世紀に重ね合わせるならば、ボーア戦争をやってたころに製作されたものを、日露戦争もバルカン戦争も第一次世界大戦ロシア革命もスペイン・インフルエンザも通過したあとの1921年に体験している、みたいなことになる。なんて比べてみると、あの頃のような世界戦争こそ起こっていないし、自分の身体こそ何十年間も無事なものの、それに匹敵するような激動を経験しているのかもという気がしてきた。少なくとも、いま電車のシートに座ってちっこい板みたいな物体に向かって懸命に文字を打っているという風景は、1990年代には存在していなかった。

 

21世紀前半に生きる自分の視点で改めて見ると、それまであまり意識していなかった部分に気づかされた。1900〜1910年代くらい、映像メディアが登場したばかりの頃の出来事が、妙にいまに近いような気がしてくるのだ。19世紀末に出現した「映像」は「映画」となり、やがて映画監督が生まれ、作家性を帯びることになる。つまり記名性が生まれる。しかし、誕生当初はなんか珍しくて面白い最先端のメディアで、いまでは誰も知らない、記名されていない人々がとにかくいろいろ撮りまくっていたのだった。観客もどんどん過激な表現を求めるようになるので、とくに作家性もないけどみんなを楽しませるために作られた奇妙な映像がたくさん生まれた。

 

デカいマントに身を包んだ男が、エッフェル塔から飛んでみると豪語し、周りも盛り上がってしまって引くに引けなくなってしまい、えいっとばかり飛ぶのだが、無論飛べるはずもなく墜落、即死してしまうという辛い映像が記録されていた。しかし全然過去の出来事のように思えないのは、このように人目を引きたい人間がいまもいるのが、日々インターネットを見ていると如実に分かるからだ。また、1905年ロシアの血の日曜日事件の模様がやたらと鮮明に記録されていて、こんな映像あったのか!と思ったら、のちに誰かによる仕込みで作られた映像で、おそらくソ連時代に入ってからのプロパガンダであると言われている、とナレーションが入っていて驚いた。フェイク映像だ。記名性がなく、正体不明の映像が溢れているという状況は、むしろこの番組が作られた1990年代より、現代のほうに親和性がある。

 

「ことばへの犯罪」とは

つい先日、芹沢俊介・編著『少年犯罪論』(青弓社)という本を読んでいた。1992年に刊行された、複数の論者による、当時の少年犯罪から日常での振る舞いに至る「子ども」たちの様相についての論考が集まっている。そのなかにある向井吉人という方の「ことばへの犯罪」という文章を興味深く読んだ。小学校の教員という立場から、最近(つまり、1990年代前半)の子どもたちの変化について述べている。当時の小学生とは、すなわち自分(1984年生まれ)である。つまり、教員から「自分たち」はこう見えていたのかという発見を呼び起こすような論考だった。

 

「ことばへの犯罪」というのは奇妙なタイトルだが、その前に、当時の子どもたちが教室内でのやりとりで、それまでと異なった言葉の使い方をしているとして、何点かの要素を挙げているのだが、以下の点が気になった。引用すると、

 

「きわめて教育的な姿勢をうかがわせる言動で、教員や友だちに接することがある。特に、ささいな失敗や、教員らしさを逸脱した言動に対して厳しい」

 

というものだ。これはなんとなく自分にも覚えがある。イヤな子どもだったのがバレてしまうのであまり書きたくないのだけど、黒板に誤字が書かれたのを見ると、得意げに指摘するような小学生パンスだったのを思い出す(そんなもんだからいじめられたりもしたが、いまは仕事で誤字を見つけたり、自分で誤字をやってしまったりするので人生というのは不思議だと思う)。これは自分自身の例だけど、本文中にあるのは、教えていると「こんなことなんの役に立つの」とか、早めに授業を切り上げると「ちゃんと時間を守ってください」と言われたりしたという。たしかに、このような言葉も飛び交っていたような気がする。

 

さて、そんななかにおける「ことばへの犯罪」とは何か。ここがわりと複雑で掴みづらいのだけど、要約するならば、学校や教室というシステムに対して介入する言葉ということになる。さきほどの「失敗に厳しく」介入するのも然り。また、「ことば遊び」的な表現、つまり話芸的なコミュニケーションも「犯罪」たりえるとしている。当時放映されていた人気番組「平成教育委員会」が例に挙げられているが、出演者のキャラクターに合わせた「誤答」がおもしろさを生み出すような状態を、子どもたちも楽しんでいると言う。これもまた当時の記憶に照らし合わせて納得できる。

 

ここで思うのは、その後インターネットが出現して2000年代には全面化したコミュニケーションのあり方だ。自分もその頃ははてなで拙いブログを書いたりしていた(いまも書いてる)。ということは、当時の子どもたちが成長してインターネットでのコミュニケーションを作り出していたんだよなと強く実感するのだった。もちろん草創期より自分たちより上の世代の方がたくさんいらっしゃったけれど、90年代の小学生による教室空間に「逸脱した行動に対して厳しい言葉」と「ことば遊び」が両立した、両義的な状態があったとすれば、それはたしかに現在のインターネットにも移行しているよなと考えたりしたのだった。

平成の思い出 <2>

僕がフィッシュマンズ『宇宙 日本 世田谷』を購入したのは、宇宙 日本 茨城県の、栃木県の県境にポツリとある無人駅の付近にそびえ立つーーというより広大な土地の平面上にぐにゃりと広がるように建設されたショッピング・センターのなかに入っている、BOOKOFFだった。たしか中2だったので1998年だと思う。それ以前から、家庭にケーブル・テレビが導入される恩恵を受けていたため、スペースシャワーTVで繰り返し流される「MAGIC LOVE」のMVはすでに見て魅了されていたし、たしか何かの番組のジングルにもフィッシュマンズの楽曲が使われていた(『LONG SEASON』の一部抜粋だったかもしれない)。『Quick Japan』やその他音楽誌のインタビューも読んでいたため予備知識はバッチリだったが、肝心のアルバムをちゃんと聴いていなかったのだ。周りに同じような趣味の友人は皆無だったので、自分で買わない限りアルバムは聴けなかった。
 
当時フィッシュマンズを聴いて何か批評めいたことを考えるという発想はあまり頭のなかにはなく、どちらかというとテクノやヒップホップに興味があったので、その音響に耳を澄まし、身体を動かす対象として捉えていたように思う。という姿勢を取りつつも自分にとってテクノともヒップホップとも違う新鮮味があったのも事実で、それには二つの理由がある。
 
ひとつは、ダブという音楽的手法を(言語レベルではなく)身体で実感した、その入口になった点。こと日本の茨城国カントリー・サイドにおいてレゲエ・ミュージックは普及していなかった(ジャパレゲが地方にまで普及するのは僕が大学に入ってから、2000年代前半くらいだった)。かなり遠くにある音楽という意識があり、佐藤伸治没後、『Temple of Dub』というコンピレーション・アルバムがリリースされて、水墨画風のジャケットがカッコよく試聴機で聴いてみたけどまだまだ自分には会得できなかった。Dry & Heavyや、クボタタケシなどに並びインドープ・サイキックスの楽曲が収録されていたのだが、これがずいぶんと激しいIDM的なアプローチで、これもそれもダブというのはいかなることかと首を傾げたものだった(最近ようやく買って愛聴しています)。ようやく「完全に理解した」と思えたのは実際にクラブに行ってサウンド・システムの前で躍り狂うようになってから。その点フィッシュマンズはなによりもメロディアスで聴きやすかったのだ。
 
ふたつめは、歌詞の存在感。当時の自分はラディカルでありたいという自意識を持て余していたので、歌詞なんて必要ないと思いながらテクノなどを聴いていたし、同時代の日本語ラップブッダ・ブランドを頂点とするリリックの実験の反復のなかからナンセンスな詩が繰り出される状態が素晴らしいと思っていた(日本語ラップが持つ叙情性などが着目されるのは、これもまた2000年代前半からだろう)。『リトルモア』『文藝』など文芸誌を読んでいるとそこでもNIPPSが「知ったフリしろ」「意味はなくていい」といったメッセージを打ち出していたのも大いに励みになった。そんなスタンスをとっているつもりだったのだけど、フィッシュマンズに関しては、歌詞がことごとく刺さってしまうので、ちょっと困った。
 
実際に『宇宙 日本 世田谷』の展開に引き寄せて考えてみる。「POKKA POKKA」「WEATHER REPORT」を入口として、「IN THE FLIGHT」で足がすくんでしまうような感覚に陥る。これはよく言及されるけれども「僕はいつまでも何もできないだろう」というラインだ。活発に(ひとりで)図書館の本を読みあさっているような中学生がこの歌詞にぶち当たり、自分なりに解釈するのはなかなかの困難を要する。ただし、曲が終わり、次の「MAGIC LOVE」で一息つくことができる。ステッパーズ・リディムのキュートなラブ・ソングで、なんだかんだで僕は最初にスペースシャワーTVで聴いたこの曲がいちばん好きなのだ(いまもってそういうところがある。ポップ・ミュージックに何か崇高さを求めるという振る舞いを回避しようとするような。)さらに続き、「バックビートにのっかって」は、当時の時点で耳に馴染んでいたブレイクビーツにふんだんなダブ処理が施されていて、いつまでもこの曲が続いてほしいと思ったものだった。
 
購入したBOOKOFFを筆頭に、『宇宙 日本 世田谷』は自分の見た風景と結びついている。それが世田谷の風景ではなかったという事実が自分にとってフィッシュマンズを解釈するときの特異点となっている(なんて文章をいま、世田谷区で投票を済ませてから書いている)。さらに言うと、自分がさほど「経験していなかった」といえる1990年代は、BOOKOFFなどの風景として「経験」されている。『宇宙 日本 世田谷』が1枚「ささっていた」BOOKOFFのCD棚をありありと思い出すことができる。大量の「やまだかつてないCD」が廉価で並んでいるし、書籍コーナーに目を向けると小室哲哉がさまざまな人と対談したシリーズや、シドニイ・シェルダンの禍々しい明朝体の背、その古色蒼然とした存在感は、「何もできない」中学生の閉塞感を倍増させていた。外に出るとめちゃくちゃに広い駐車場があり、そこを自転車で突っ切りながら家に帰る。高校に入ってからいつものようにその駐車場を走っていると、二人乗りをしたヤンキー中学生が横付けしてきて「千円貸して〜」とカツアゲしようとしてきたので慌ててペダルに力を込め、追いかけてくるバイクよりも速く、走り抜けたこともあった。情けないことこのうえないのと同時に、バイクよりも速い自分自身に爽快感を覚えていた(向こうもめんどくさくなっただけだけど)。フィッシュマンズはそのBGMとして鳴っていたのだった。
<たぶんつづく>

読書メモ 2021.6.27

百木漠「スマホとデジタル全体主義」(『世界』2021年7月号)を読む。

「二一世紀には、資本主義と全体主義だけでなく、データ主義が人間文明にとってのあらたな脅威となる可能性がある」

という指摘が面白い。20世紀は資本主義と全体主義が、人間の活動を大きく展開させた。データ主義とはつまり人間がスマホに自らのデータを手渡して、それを受け取り続けるプラットフォームの無限の拡大、強化されるアルゴリズムにより人間に影響を与えていくという無限の運動で、それは資本主義と全体主義とは別というより、二つの要素がより徹底され、パワーアップしたバージョンとして捉えることもできそうだ。

ここで忘れてはならないのは、資本主義と全体主義の運動に対して、共産主義的な運動もまた、人間を駆動させていたという20世紀の歴史だ。本論でも「デジタル技術は資本主義的にも共産主義的にもなりうるはずだ」と指摘されているが、インターネット上において情報はただ搾取されているのみではなく、溢れ出すことで情報を共有するツールとしても使える可能性は残されている。というかインターネット初期に目指されていた可能性とはそういうものだったはずだ。

とはいえ現在のネットを見る限り、そもそも情報を共有したり、それを活用するという行為自体が無効化しているような側面もある。エコーチェンバーと言われる通り小さなコミュニティのなかで同じような情報がぐるぐる回っているだけなんだけどそこのなかでの満足度は高かったりするような状況が各所で見られるし、なかなか厳しい状況だなとも思う。

 

本論とはすこし離れるけれども最近考えているのは、特にスマホ以降に人間の思考の方法、というか思考を他者に向けて表現するような方法論自体が大きく変化している可能性だ。むろん、あまり良い方向に変化しているとは思っていない。そして、当然ここでこんな文章を書いておそらくこれから告知をする自分も変化の渦中にいる。となると「自分について書く」こともまた、現代の世界を描くことに直結するのではないかという気がしてくる。「自分の話をする」のがいいかも。