バズをあきらめて・その後
感染者増加が止まらない。とにかく参った。単に体感で記すならば、電車の人口はここ1ヶ月ほどで増えている。しかしこれも、自分が帰宅する時間と、年末で忙しくなってきたので普段は早いけど残業してる人が帰る時間が合流しているだけかもしれない。つまり、自分には何も分からないということだけが分かるので、微かな無力感がある。政府はとくに大きな対策を打たなくなってしまったが、無力感っぽいテンションのままずっと放置されているような気分になる。結局は自分で考えるしかないのだ。「自由」についてはあとで書く予定。
ブログはもうバババっとメモを書き散らすようなつもりで書いている。そのくらいの気持ちじゃないと続かない。手書きだったらもっといいかもしれない。先日、iPadのペンシル機能にひかれ、必要になるような案件もあるし、今年の年末はそんなに浪費しなさそうだしということで思い切って買おうとしたら、折からのコロナ需要でどこもかしこも在庫なし、入荷も滞っているとのことだった。
ちなみにTwitterについては、がんばっていた頃は(そんな頃もあったのだ)1つ1つのツイートを丹精込めて作り、「行けー!」と念じながら投下していたが、それらがバズったりすることはほぼなかった。いまはメモ以前の思考のかけらみたいなのをポツポツと書くようにしている。
黒パンという駄菓子
駄菓子の卸売店にインタビューした記事を読む。僕が小学生の頃は何軒か残っていたので、駄菓子についてはわりといろいろな記憶がある。「黒パン」が好きだったなあと思い出し、どんなんだったかなとググってみたけど、記憶と完全に一致するものは見つからなかった。黒糖を練り込んだ固いパンで、一個ずつ袋に入れて売られていた。地味な食品なので周りの友達は手に取らなかったが、これが渋いと思って食べていた。先日書いたマックスコーヒー然り、子どものころの記憶、そんなんばかりだ。自分らしさを確立しようと懸命になっていたのかもしれない。むしろいまのほうが意識が低くなっている。
のちにどこかのタイミングで、ロシアでは「黒パン」が食べられていると知り、あれをいつも食べているなんてうらやましいなと思ったが、ライ麦パンなので全くの別物だ。
これが比較的近い。
毎日のディスタンス
週末はドタバタでブログ更新が途絶えてしまった。韓国から日本に来ている友達の家で、少人数のディスタンス・パーティをやったりしていた。ポッサムをつまみながらビールをゴクゴクと飲む。アミエビの塩辛(セウジョッ)があったのが嬉しかった。刺激的な塩辛さがあまりほかにないタイプの調味料。新大久保で売っているらしいので僕も買って家に導入しよう。韓国といえば!のチキンもご馳走になった。カンジャンを絡めると美味しく、無限に食べられる。カンジャンとは塩味の「醤」で、日本の醤油に似てるけどちょっと甘みとコクが強い感じ。ありがとうございました。
今日は用事があって新宿を歩いていたのだが、人出が多すぎて面食らった。自分も出歩いているので責めようがないのだが、これでは感染拡大は止まらなさそう。緊急事態宣言のときは、政府が一声かければピタッと従うのが日本だなと考えていたが、逆に一声かけない場合はみんなかなり自由に振る舞ってしまうのだなと実感する。やたらと甘いものが欲しい気分になり、スターバックス・コーヒーで極度に甘い飲み物ーーキャラメルフラペチーノを買って帰宅。
寝巻きとしてのアンビエント
2010年代に入ってからというもの、やたらとアンビエントばかり聴くようになっていまに至っている。ウェルネス……といえばいいのか、身体的な安定や充実に対してはてんで無頓着な自分だが、耳だけはそのようなモードになっているようだ。アンビエントといっても「これがアンビエントだ」と銘打って作られる音楽と、とくにそういう打ち出しはしてないけど「そういうもの」として聴ける種類の音楽があり、いちおう自分のなかではそれらを一緒くたにしてアンビエントと呼んでいる。時代によってわりとテイストが違っていて、いろんな方向性があるけど基本的には安らぎを目標設定としているという点では一致しているというのが好きなところだ。しかし、例えばBURZUMなどをアンビエントに入れるならばその基準も適用できるかどうか危ういので、便宜的な解釈でしかないとも付け加えておく。
なかでもよく聴いているのがHarold Buddの“The Pavilion of Dreams”(1978)で、これがいちばん自分のなかでしっくり来ていて揺るがない。あまりにもしっくり過ぎてオールタイム・ベストだとすら認識していなかった。もはや寝巻きとか、お気に入りのコップみたいなものになっているかもしれない(『家具』だ)。ジャズ要素が強いし、もっとボンヤリと形容するならば、官能的なところが好きなんだと思う。12月8日、Covid-19による合併症のために逝去したとの報を受け、ようやく振り返ることができた。これからも聴きます。安らかに。
Twitter Japanの2020年まとめと『ディスタンクシオン』みたいな話?
以前、年末が好きだと書いたけど、その理由のひとつとして、その年のまとめがなされるからというのもあった。単に、まとめを見るのが好きなのだ。ベストディスクとか。
そんななか、今日は苦々しいまとめを見てしまった。Twitter Japanによるものだ。「Twitter上で2020年を共に過ごした皆さんへ」というタイトルから本文にいたるまで、徹頭徹尾「煽り」に見えてしまうのは、自分自身が今年(も)Twitterにかぶりつきだったからにほかならない。ひとつのプラットフォームをあたかも世界と同一視し、一喜一憂していた自分に、ほのかな情けなさを感じながら読み通した。
とくに、今年もっとも「いいね」がついたのは「100日後に死ぬワニ」の最終回というのに「くる」ものがある。もう誰もワニの話をしていない。もっとも引用ツイートされたのはポテトサラダだった。ぴえんはもっとも多く使われた絵文字とのこと。もうこの文字の名称は「ぴえん」で確定しているのか。
ただのランキングだが、日本Twitterの精神性が浮かび上がっているように思う。しかしここで考えたいのは、Twitterの外では何が起きていたのだろうといったことだ。いまだにネットの外の世界は存在しているのだった。Twitter的ニュースを誰かに話したら「それ何ですか?」と言われることもザラにある。
そういえばTVODが美学校のオープン講座でやっている内容は、階層や地域で文化意識はどう形成されるか、いろいろな人に話を聞きながら探るというものだ。何度か講義を行っているなかで気付いたのは、ネットにどのタイミングで接続したか/していないかといったファクターも重要な相違になっていることだった。これがより最近になると、Twitterを熱心にやっていたか、それともInstagramか、TikTokか、みたいな側面においても意識の違いが生まれてくるのだろう。言わずもがな「回線があるか」どうかが、階層として現出することになる。
そんな感じでやっておりまして、オンラインなのでまだまだ受講者も募集中です! よろしければぜひご検討ください!(最後は宣伝になってしまいました)
ミロについて
ミロの安定供給が困難になったため生産停止らしい。
そんなに人気があったことに驚き。気がつけばもう20年くらい飲んでいないが、子どもの頃は家に常備されていたのでガブガブと摂取していた。しかし、甘いものが飲みたいときに消極的に選択する対象であって、好きだったかと言われると、それほどでもない。とにかく甘いものを飲む機会が少なかったのだ。だからといって親によって規制されていたかというと、そうでもない。当時は甘い飲み物の世界を知らず、ミロによって充足していたのだろう。
ミロには「粉がよく混ざらない」というデメリットがあると認識していたのだが、もしかしたらいまは改善されているのかもしれない。粉が完全に溶けている「缶のミロ」は大好きだった。(あまり置いてないのだが)売っているのを見つけたらすかさず買ってもらって、大満足していた。
のちに「マックスコーヒー」にハマってしまったため、自分のなかでミロの存在はだんだん遠ざかってしまった。「コーヒー」を飲むのは大人というイメージがあったので、大人に憧れていた僕はマックスコーヒーを積極的に選択したのだ。味はあんなに甘ったるいのに。